ミニ骨折。「小指の骨が1本折れていた」と聞かされたのは翌日だった。当日は、その痛みようを見て、私に言わせれば、せいぜいでもひび割れ程度、と看た。だから「気をつけなさい」と言えた。慌てずに済んだ。金曜日の夕刻だった。
一晩を過ごし、「医者に診てもらいたい」と思ったようだ。挫いただけではない、と自己診断したのだろう。そうなると、すぐに医者に駆けつけたくなるものだ。
救急病院に行った。「小指の骨折でした」と言って、ガチガチの処置をしてもらい、帰宅。月曜日に「本格的検査です」という。この日はレントゲン撮影をしただけで、月曜日に専門家が、という。「フン、フン、お大事に」と言えた。
月曜日。CTスキャンの世話にもなり、「主婦ですので」と訴えてやっと、人差し指と中指が覗くギブスに改めてもらい、帰って来た。不便この上ない、と愚痴る。そして、1週間後にもう1度、と言われたという。「大変だねえ」と同情した。
石膏で固めていた時代なら、脚の骨を折っても、異常の自覚がない限り、次の通院は石膏を取り外す時だったように記憶する。だから「大変だねえ」と同情した。妻も、車の運転ができないから、義妹なりどなたかの世話になるか、電車で、となり、愚痴る。
野菜の収穫は私が担当し、下洗いまで済ませて摂り込むことになった。大根をする作業は、私が受け持った。
3日ほど経過した頃のこと。料理もなるべく「簡単に」と考えたようで、「お刺身でも、いいですか」と来た。「待ってました」だ。そこで、「ケンに出来るダイコンを」と頼まれた。刺身についてくるケンを私は好まない。すでにダイコンは薹を立て始めている。だからサルにかじられていたが、分厚く皮がむけるのを選んだ。
「片手って、不便ね」と嘆きながら、刺身の皿をテーブルに並べながら、ケンを作った工夫とプロセスを説明した。
丁度、「南方中国歴史の旅」の出張報告作りで、南京のあたりに至っていたからだろう。ある友人の片手を失った父を思い出した。次いで、先月のエピソードも思い出した。変わった形のダイコンを収穫した妻が、わざわざ私に「今年のベスト」「お色気タップリ」と、見せた。つくづく健康第一、用心第一と思ったものだ。
とはいえ、近ごろの病院んは、チョット大げさ、と思わずもなかった。
「どうしよう、わずか10日で」との嘆きの声が発せられた。左手の二の腕が、「使わないと、こんなに痩せるのね」とビックリしたようだ。
3度目の通院後の夜だった。妻が、「痛かったでしょうね」と、私の右手指を話題に出した。中の3本の指がペッタンコになった(跡が、今もありありと残っている)思い出の事件だ。高校2年生の12月30日。餅つきの日だった。
「あの医者は、専門家だったのかなあ」と、私はつぶやいた。戦時中は、レントゲン技師で、医者不足でニワカ医者に、と口さがない人が語っていた。
どうやら妻も、有難迷惑のような気分にされかけたようだ。「近ごろは、大げさですね」と言い出した。私は医者にも同情した。それにしても、軽症でヨカッタ、と思った。
この骨折は、温室での作業中の災難だった。私が、防草土舗装で用いていた砂部袋を、通路に置いてあったのが災いした。もう少し重症なら、キット私は「バカモン」と妻を叱っていたと思う。そうなるのは父譲りだ。
私は幼い頃に、母から見れば、大怪我をしたらしい。帰宅するなり、そうと聞かされた父は、ドカドカと靴も脱がずに私が寝ていた部屋を目指し、「いっそのこと、死んでしまえ」と叫んでいた。襖をガサっと開け、一目私を見て、そっと襖を閉め立ち去った。
キョと父は、キョトンと父を見上げている私を見て安心したのだろう。しばらくして、母がやってきて、私の側に座った。そして、「鬼のようなお父さんですね」といった。
その時からだろ思う。「母親はもったいないが、だましよい」という古川柳を後年した時に、積年の思いを言い当てられたように感じて、膝を打つ思いにさせれてたものだ。
要は、無事に、この度は妻に、誤解されずに済んだ。