ボケ対策。短大時代に学生。向けて発した話題の1つを思い出した。それは、アメリカ(のアパレル企業)で多くのユダヤ(系アメリカ)人と付き合ったが、その体験を通して気付かされた推論である。当時は、講義に集中してもらい(私語を慎ませ)たくて持ち出した話題だったが、このたびはボケ問題を意識するうちに思い出した。
ユダヤ人は戒律を尊重する日常生活を送っていたが、この事実と多くのノーベル賞授賞者や優れた芸術家を輩出してきた事実との間に関りがありそう、と私は憶測した。そこで、私の勝手な推論を(憶測だと断ったうえで)講義時間に語るまでになった。
1960年代後半、28歳のころから私はしばしばアメリカに出かけるようになった。アメリカの衣料企業の多くはユダヤ人が経営していた。だからユダヤ人と親交の機会が増え、自宅にも招かれるようになった。その付き合いを通して不思議なことに気付かされた。
旅行者など在米日本人は日本人と呼ばれるが、2世や3世などは日系アメリカ人と呼ばれていた。だが、ユダヤ系アメリカ人は、アメリカ国籍を有した人であれ(ユダヤ系アメリカ人とは呼ばれずに)ユダヤ人と呼ばれている、それはどうしてか。
これは、ユダヤ人が放浪の民であったときに生じた呼称ではないか。ならば、イスラエル国の存在が根を張るにつれて、イスラエル(ユダヤ)系アメリカ人という呼称が生じてもよさそうだが、その兆しはなかった。
そこで気付かされたことが、ユダヤ人が一様に、古き決まりごと(戒律)を尊重し続けていたこと。肌の色や出生地などに関わりなく、戒律という共通の決まりごとに従って、少なくとも尊重した日常生活を送っていたが、これがユダヤ人の査証ではないか。
当時、アメリカは絶頂期にあり、豊かさを謳歌していた。日米の格差の大きさに驚いたり憧れたりするだけでなく、私は、疑問や不安も感じ始めた。時あたかも、服飾ファッションの業界でもマズローの「欲求五段階説」を注目し始めた。だから私は、ファアッションを熱心に囃すヒトと、飛びつくヒトに分けて考え、観察し始めた。その両者を強く結びつけている「何か」の追求だ。しだいにパターンが見え始めた。
その本質を、「欲望の解放」と見て取れば、あらかたのことが説明できそう、と知った。と同時に、当時、このアンチテーゼのごとき動きが生じており、このジーンズに身を固めた人が多くいたアンチテーゼの人々に私は共感を覚えた。「欲望の解放」を抑制する動きとしてではなく、自ずと「人間の解放」に目覚めさせることにつながる価値ある何かを希求している人たち、と見ての共感だった。
次第に私はファッションビジネスの本質に近づいた。工業的に流行をあおる産業全般を広義のファッションビジネスと見てとるようになり、ファッションビジネスとは「欲望の解放」を「人間の解放」かのごとくに錯覚させる産業ではないか、と疑問視するようになったわけだ。だからアメリカで「消費者=コンシューマー=使いつくす人」という概念が誕生し、すべての人を「消費者」という言葉で総称できるようにしたのだろう。
さらに私は、その誤解させる要素を「罠」であるかのごとくに不安視し始めた。だから後年、市場とは(処女作『ビブギオールカラー』で分析したように)「罠」を仕掛ける人と、その「罠」にかかる人の出会いがしらの一発勝負の場、と見るようになった。共に満足しているが、何か大きな忘れ物をしている、と睨んだ。
要は、「欲望の解放」を「人間の解放」かのごとくに錯覚し続けたいヒトと、このシステムの「罠(資源枯渇や環境破壊問題など)」に気付き始めたヒトを峻別したくなったわけだ。
もちろん私は欲望を否定などしていない。むしろ欲望を生きものの原点と見ており、健全な欲望を「人の本質」とさえ思って尊重している。
問題は、この「人の本質」を「人」として深めるか、はからずも「ヒト」の段階に留まったままで深めるかの峻別にありそうだと睨み、このシステムを疑って止まない「人」を2大別し、静かなる観測を始めた。ヒトはいろいろだが、このシステムにドップリつかり、いったん握った権力(今日では、税収など第三者のお金を操る力と言ってもよい)を、ウソやゴマカシなどを駆使してまで保ち続けようとする「人A」と、「人A」に権力を与え続けてしまう「ヒトa」の存在が気になり、その定点観測に務めた。
次第に、この両者が、いわゆる民主主義の矛盾を露呈させかねず、結果は社会から中間層(このシステムの恩恵を最初に享受した人たち)を(リストラなどで不要視することになり)なくしかねない、と危惧するようになった。
次第に、ヒトが「人」として幸せに生きる不可欠の要素としてボケ問題に興味を抱き始めた。さらなる紆余曲折の結果、その一環として、「欲望の解放」と「人間の解放」を峻別し、「人間の解放」の希求が「欲望の解放」を制御することを体感すれば、ボケの発症を遠ざけそうだ、と観るまでになった。
もちろん、こんな学生が眠くなりそうな屁理屈を私は話していない。「自分の頭で考えることをあきらめに人」賢い消費者になることが、芸術活動にプラスに寄与するのではないか、と話した。要は「欲望の解放」にドップリつかって満足するのではなく、「これでいいのか」と考えはめることが、大事と訴えた。
大勢の学生がジーンズを愛用していたが、1960年代には賢い消費者がさまざまな運動を繰り広げ、その人たちがジーンズをそのシンボルのごごとくに愛用し、それが今日に至っている、と話した。
ユダヤ人の戒律の厳守が「欲望の解放」を制御し、それが「人間の解放」を希求させ、自ずと多くのノーベル賞授賞者や優れた芸術家を輩出し、そうした人からボケ発症を遠ざけるのではないかとの憶測は、今も大事にしている。いずれボケは、生活習慣病の1つに数えられそう、との思いを次第に深めている。
人間らしく、いかに欲望と付き合うか
好ましきストレスと、その上手な解除
これが、ボケ対策の最重要課題
工業社会はこうしたことを忘れさせ、ボケを促すシステムだった
さあ大変
1000兆円を超えた国の借金
早晩ニッチモサッチモ行かなくなる
これは、民主主義と資本主義の欠落点が産みだした副産物
工業社会はこうしたことを忘れさせ、ボケを促すシステムだった
さあ大変。
「術」から「道」へ、「わび」や「さび」の追求を、もう一度
人間を定義し直そう