2日続きの快晴から始まった3月でしたが、その後は不順な天気に泣かされながら、4大作業を始め多々よき成果に結びつけられました。それはマクロビアンの動きに元気を得たり、大勢の加勢人に恵まれたりしたおかげがですが、快晴の日に、昼食を庭に運んでもらい、2度も終日、その準備や手配で孤軍奮闘したことが第二の要因と見ています。
暖冬のせいか、冬野菜が末期に入るのが早く、花芽やシイタケをひときわありがたく思いました。また、フキノトウやコゴミから始まる山菜や、ニラとかスナップエンドウへの期待を早々と高めたり、夏野菜の準備を急かされたりした一カ月でもありました。
上旬は、2度も車で楽しい外出に誘われ、その間に3泊4日の出張もありました。おかげで、有名な2か所(神社と寺)で昨年の台風がらみの強風被害に触れ、2度も楽しいソバの昼食に恵まれたのです。先の誘いは、手作りチェンバロによるバロック音楽を楽しむひと時で、後の方は、出張の後でした。一度はその肉声に触れたかった2人の講演に耳を傾ける機会を得たのです。こうした合間を縫って庭仕事に取り組んだわけです。
晴れ間を活かし、夏野菜用の最初の一畝を耕し、2次と3次のスナップエンドウにも支柱を立て、2つの意味で記念になりそうな石組みに取り組み、さらに、長年の願いであった木立性ローズマリーとモッテノホカを庭の仲間に加えたのです。雨になると、読書や資料整理だけでなく、2つの多肉植物の鉢を食卓で仕立て直しており、妻に叱られました。
中旬は悪天候の2日間から始まり、3件の来客と書斎での資料整理で終わるはずでした。ところが、歯科医に駆け込む事態が生じたり、繊細で大事な電話相談を受けたりしたおかげで、まだ往年並みに立ちまわれそう、という気分になれたのです。雨間と見ると幾度も囲炉裏場に駆け出し、剪定クズを薪用と焚き火用に二分できたからです。
翌13日の朝は、初見の蛾で一騒ぎの後、朝食中に門鈴がピンポン。自慢の甥夫婦が東京から、トンボ帰りの墓参でした。2人を見送った後、日没までセメント仕事に熱中。翌日は知範さんの世話になり、未来さんを誘い、遠方の大手HCに出かけ、資材などの仕入れ。そして快晴の木曜日は終日、昼食を庭でとり、孤軍奮闘したのです。
その後19日まで、またぞろ気ままな天候に悩まされながら、延べ10人の加勢人を得たおかげで、4大作業までこなすことができたのです。それは、この間の何の予定もなかった18日が、中旬2度目の快晴になったおかげです。またこの日も昼食を庭に運んでもらい、さまざまな段取りや下準備に終日当たれのがヨカッタ。こうした間に、心臓の定期検診での外出や、大事な町内の集まりにも参加しています。
かくして下旬を迎え、6割ほどの時間を庭仕事に当て、5つの懸案を片づけました。その1つ、もう1つの石畳道での加齢対策時に清太君が初めて参画。下旬は、妻も随分時間を庭周りに割き、レモングラスなど各10鉢ほどの3大鉢植え植物の土替えなどを済ませました。残る4割ほどの時間は「オツムの体操に」とばかりに、さまざまな資料整理に割き、次第にヒトと人に対する悩まし気な気分を深めています。この間に、知範さんに、今度は大型電気店まで連れて行ってもらえ、これが良きインターバルになりました。
この他に、久しぶりに高安先生を迎え、嬉々と意見交換。ミツバチの志賀師匠がルアーの設置で来訪。繊維リサイクル関係の仲間との飲み会に出かけ、喧々諤々。高級有料老人ホームに詳しい人が散歩を兼ねて来訪。あるいは妻の姪が十三詣りを済ませたとの報告で来訪など、賑やかでした。カエルは22日からお目覚めです。
~経過説明~
①
快晴の初日は、花芽と菜の花のオンパレードだった。朝食は、みそ汁の具、お浸し、そして炒め物が花芽だった。昼食のうどんには花芽の天ぷらが、など。畑では、冬野菜が「終盤だ」とばかりに菜の花が咲かせ始め、気ぜわしく夏野菜用の最初の一畝を耕した。
ハナナの花芽は昨年の11月早々から収穫が始まり、花芽として収穫し切れなかった分が、次々と花を咲かせ、早々と菜の花畑になった(3/7撮影)。
2月下旬から冬野菜が末期のような状態になり、3月中旬にはハクサイが薹を立て始めた。
思えば、この冬はついに分厚い氷が張らず、太い霜柱も立たなかった。降雪らしい降雪は一度しかなく、根雪に悩まされることがなかった。また、喫茶店にある薪ストーブは、冬休み中に一度、佛教大生と試し焚きをしただけで終わった。
畑は早、夏野菜がとれるまでの端境期に入った感になり、おのずと思い出したことがある。かつて秋田や長崎から届き、わが家の野菜の端境期を埋めた山菜や早生の夏野菜のことだ。真冬のわが家が届ける冬野菜と、秋田の春の知らせである山菜が、あるいは長崎は牛深のアリヱさんから届く早生の夏野菜と、京の菓子が、毎年互いの元気の知らせであり、元気の素であった。わが家の風物詩のようになりかけていたのに…
わが家では「ハナナ(花菜)」と「花芽」、そして「菜の花」という言葉を使い分けている。この冬は、11月からハナナの花芽をポキポキ折りとって食材にし始めたわけだが、ハナナと同様に薹(とう)をたたせ、花芽を食材にするもう1つの野菜がある。種を瞳さんにもらったノラボウナだ。その収穫は3月19日から始まった。
この間にアイトワ菜の花芽も摘み始めており、今年の食卓はずいぶん長期にわたって、多様な花芽を楽しむことになる。というのは、ルッコラの白っぽい花は盛りだが、
ダイコンは咲き始めたばかりで、盛りは4月に半ばになりそうだ。
また、アイトワ菜は自然交配種だから、花は多様だし、咲く時期も揃わない。随所で自然生えが勝手に芽吹き、巨大に育つのもあれば、
種をまくのが遅れた分もあり、自ずと花も多様になる。しかも妻は、冬野菜は抜き取らずに途中から切り取って収穫し、根元から多数のわき芽を出させ、さらに孫芽を出させるなどして大事に収穫するから、おのずと花芽の季節は長くなるし。
残る多く残る野菜に花を咲かせてしまう。
だから巨大なアイトワ菜であれ、楽しんでさまざまに活かしてくださる人にお裾分けしているが、
いずれは、そうはたくさん育てられなくなるに違いない。その時には、この妻の長期にわたって花芽を収穫し続ける収穫方式が、真価を発揮するに違いない。これも「清豊」を願う生き方にとって、心がけるべき秘訣の1つ、と考え始めている。
「清豊」でいえば、わが家が楽しむダイコンの花芽はその典型だろう。時には巨大なダイコンさえも犠牲にして薹をたたせ(2,8kg)、
その花芽を楽しむこともあるのだから。もちろん、薹を立て、花を咲かせたダイコンは堆肥にして、翌年度の肥料にする。だから、土を肥すわけだから、決して無駄をしているわけではない。
②
菜の花の時期は、冬子(フユゴ)のシイタケが出る時期だし、山菜に思いを馳せる時期であり、オオイヌノフグリやクリスマスローズの季節でもある。
冬子のシイタケは見事なもの(250g)が採れた。おかげで幾人かにお裾分けをし、わが家にとって新な調理法を1つ、教わりもした。
それにしても、良い時期だ。例年通りに咲き始めたクリスマスローズは、菜の花と共に「もう春だ!」と感じさせる。毎朝、未明に目覚め、広縁のカーテンを引くが、まずクリスマスローズの花壇が目に飛び込んでくる。だから、いつも見とれてしまう。
元はと言えば、妻の「還暦祝い」に、と生徒さんからたくさんいただいた鉢植えだが、10年がかりでその何倍にも増やした。
今や様々な交配種まで随所で誕生している。
それにしても、今年はクリスマスローズが見事だ。
アイトワでは「清豊」の1つに、ジックリ多様に増やしたクリスマスローズや、この庭で自然交配するアイトワ菜だけでなく、(時をかけて自生させてきた)山菜を数えている。アマナは2泊3日の出張前から3か所で収穫期に入った。
フキノトウは、出張中に芽を出していたようで、フキ味噌が帰宅翌朝に出た。
20日からアマナが花を咲かせ始めた。
野菜代わりに大量に採取する山菜として、ミツバ、セリ、フキ、宿根ソバ、2種のタケノコ、タラの芽、そしてウコギの芽などを数えている。今はニラやラッキョウは畑作りだが、庭の随所に分け棲まわせ初めており、いずれは自生種に頼ろうと思っている。
自生種は他に、年に幾度かは楽しんでいるコゴミ、ウド、ワラビ、ヨモギだけでなく、その内にゼンマイやノビルだけでなく、ヤマワサビの採取コーナーも充実し、採取できるまでになりそうだ。
食材にするギボウシも随所で育てていたが、昨年のシカの食害で絶えてしまった。その代りに、ではないが、このたび(シカが好まない)モッテノホカ(食用菊)のコーナーを用意し、いただいた一株の苗を植えた。2~3年内には畝一杯に広げたい。
もちろん、アイトワ菜も庭の随所で(沖永良部島で見たように)はびこらせたい。キット妻は、こうした自生種を私が亡きあと、当てにするに違いないのだから。
それはともかく、今年は3度も、菜の花を楽しめるかもしれない。まもなくダイコンが満開になる。最後には、苗づくりが遅れ、例年より遅れて花を咲かせそうなシュンギクの花が控えている。
③
久保田英和さんに誘われて、午後から曇天になった2日、西大原の大原野神社に出掛けた。
境内にあるソバ屋で開かれたバロック音楽の集いが目当てだった。
大原野神社は紫式部の氏神として有名だが、昨年の台風がらみの強風で欅の古木が倒れ、建物にも被害が及んだことがニュースになった。まずこの倒壊の原因を確かめ、得心した。
また、改修費捻出のためか、檜皮をむいた樹を随所で見た。
次いで正法寺まで歩き、梅園も楽しんだ。
今少し歩めば「花の寺」として知られる勝持寺がある。だが、割愛。ソバ屋に取って返し、初めて食すタイプのソバガキとソバ粥も味わう昼食をとり、演奏を待った。
チェンバロとホルンの演奏とクラビコードの音色に耳を傾けたが、とりわけチェンバロと繊細な音色のクラビコードに心惹かれた。
手描き友禅作家が一念発起し、40歳にして木工の世界に進み、一から手作りで完成させた代物だった。それだけに、楽器のありようにまで中世を彷彿とさせられた次第。
小雨になった翌日、昨年の強風で古木が沢山倒れた仁和寺を訪れる機会を得た。だからその被害も点検し、
原因は同じく洞であったことを知り、ヨカッタと思った。過日わが家の洞ができたモミジを切り取り、チエーンソーを初使用し、薪割を初体験した知範・恭祐両人と、心配事を1つ減らすことができた妻を、ともに喜ばせた一件だ。
この後は、2泊3日の出張を翌日に控えていたし、小雨をいいことに、静養を兼ねて2つの多肉植物の鉢に手を付けた。
そこまではヨカッタのだが、腰への負担を気にして食卓で椅子に腰かけて仕立て直し、土をこぼし、妻に叱られた。
2度目のソバは、3泊4日の出張初日の昼食で振る舞われた。お勧めのコースだったが、心打たれるものがあった。
醸造の老舗が手掛けたソバ屋だが、何もかもがこれほど整った商いにはめったに出会えそうにない、と感心した。
次のお誘いは白砂伸夫さんだったが、2つの念願がかなった。一度は肉声に触れたかった2人の元高級官僚(ゆとり教育でも知られる寺脇研と、著書『面従腹背』でも知られる前川喜平両氏)の講演だった。その後、アイトワに送り届けてもらい、久しぶりに2人で庭を巡り、歓談。エゾヤマツツの前で記念写真。思わず先月の父の27回忌を思い出した。
今年は、27年前と同様に、父の命日にエゾヤマツツジが満開になった。
この時に、なぜか短大勤め時代に、小中一貫教育推進プロジェクトに関わったことを振り返った。ゆとり教育の実体に触れる機会に恵まれたが、その後「ゆとり教育を根付かせるゆとりを欠いた日本」の現実に触れており、悔しい思いをしている。保護者が子どもの進学率を気にして、詰込み教育に逆戻りさせたような一面があった。
私の目には、後世、ゆとり教育の価値を認められなかった時代性を、逆に、国が指定する詰込み教育を子どもに押し付けた時代であったことを、誰しもが反省せざるを得なくなるだろう。私の目には、敗戦前、競って兵学校や陸大を目指した風潮がダブって見える。この現実を、子どもたちは直に体感する日が近いだろう。
それはともかく、今では、ゆとり教育を非難するために用いられた統計も不適切であったことが分かっている。
④
「これで完成」と(石畳道を親水性防草土で舗装する作業の出来栄えを)見た。
17日の4時だった。関わった6人の名を刻むこともできた。本来は野草が勢いづく前に仕上げておきたかったが、仏教大生の来訪は月に1度だ。悪天候にもたたられた。だから、植物が目覚めた今頃になって、やっと完成の域にたどり着けた。
その受け入れ準備として、私は4日前から、恭祐・知範両人に先月取り組んでもらった石組みを2つの意味で記念になりそうな石組みとして仕立て直し始めてもらった。
2人はこの階段を、重い荷を積んだ一輪車が円滑に上り下りできるように、ありあわせの石で見事に仕上げた。
だが2つの点で、私の目には物足りなかった。だから知範さんに先日、庭で遊んでいた2つの大きな石を、現場まで運び込み、所定の場所に据えておいてもらった。
この2人は、とても思いやり深い青年だ、と私は見ている。だから、まず2人に、その深さだけでなく「スパンを、より長くするキッカケになった」と言ってもらいたい、と願った。そこで、機能面の改善から手を付けた。要は、加齢者が階段として活かし易くなるように手を加えた。
次に、周回路の入り口だから、ありあわせの石を活かし、パンチを利かせ、美的価値も高めたかった。
さらに、この舗装作業は仏教大学生が手掛け始めたものだし、終盤には未来さんも参画した。だから、これらすべての人たちの思い出の1つに、と願わずにはおれなかった。
うまい具合に、その関係者(4人の佛教大生の来訪日がまず決まり、2人の青年も参加を望み、未来さんもうまく行けば、となった)が揃って来訪できそうになった。しかも、佛教大生の2人は4回生だし、残る2人は3回生だから、もう1つの卒業記念にしてもらえそうだった。しかし、現実は、恭祐さんと未来さんの2人は参加できず。
作業当日、4人の佛教大生には防草舗装土を塗る作業を、知範さんには2つの願いをかなえる石組み作業に当たってもらった。
この2つの願いとは、まずは階段のステップ部作りであり、そこをメモリアルコーナーに活かす(一角を石で囲う)ことだった。
この囲いに要した石は、その4日前に(再度知範さんと大手HCを訪ね、左官のコテやブラックベリーの苗木などと一緒に)余分目に仕入れてあった。
この日のために、私はもう1つ、手を打っておいた。石囲いと防草土の境目にセメントを詰め、草木の根や芽が割り込めないようにしておくことだった。
かくして、小雨にもたたられ、せわし気な作業日になったが、なんとか「これで完成」との域にまで仕上げることができた。
もちろん翌日、私は補修作業に当たっている。雨に急かされた前日の作業には気になる部分が多々あったからだ。この補修をしながら、1つの重大な取りこぼしにも気付かされている。メモリアルデーを刻み込んでいなかった。
そこで、当日参加できなかった未来さんに(3日後の水曜日が定休日に)、彼女が、傷だらけの廃材の石をセメントで補修し、見事に化粧したところで、2つ目のメモリアルコーナーを作ってもらい、日付の問題も解消することにした。
この3日後に、驚くべきことに気付かされた。それは、野草が春のおとずれを知る前に作業を済ませ、動く前に防草土を固めておかなかったことが原因であった。自然の力、生きものの「生きんが(ための)力」を追認させられる出来事だった。
⑤
中旬の予期せぬ2つの門扉からのピンポンと、2本の予期せぬ電話、そして冷凍してあった納豆餅(過日中村夫妻にもらった手作り)が、その後に取り組んだ大仕事にはホルモン剤であったかのごとくに効いた。
最初のピンポンに誘われて門扉に駆けつけると、初めて見る蛾に2人の観光客も驚いていた。
私は、この蛾の飛翔の仕組みがとても気になり、突き止めたが、妻は得心し、とても喜んだ。自然の不思議は、いつも私を勇気づける。
次のピンポンにも驚いた。甥の声だった。夫婦連れで東京から、トンボ帰りで「おじいさんのお墓に参ってきました」という。甥は、両親が念願した大学に浪人までして合格しながら、その入学金をもってリハビリの世界を目指し、勝手に進学した。その事実は姉からの嘆きの電話で知ったが、私たち夫婦は「ヤッタネ」「春樹ちゃん、カッコイイ」と叫びあい、自慢の甥になった。そこで甥は伴侶にも出会えた。
その後、乙佳さんから「土は、まだいりますか」との電話。3トンダンプ一台分を週内に届けてもらうことになった。さらに、高級介護マンションに関わっていた旧友からも電話があり、「是非お訪ね下さい」となった。こうしたことが、なぜか5日後に控える5人の加勢人と、その2日後の2人の加勢人への期待をとても膨らませさせた。
その受け入れ準備を、と願い、知範さんにまた頼み、大手HCに出かけたわけだが、それだけでなく、快晴の15日を1人で活かした。昼食を庭に運んでもらってとり、
買い求めた資材を活かし、モクモクと受け入れ準備に孤軍奮闘。援軍の加勢を最大限に活かす段取りと受け入れ準備を整えた。
4人の仏教大生と知範さんを迎えた日は、あいにくの天候になった。だが、2日前の段取りと、前日の下ごしらえのおかげで、石畳道の防草土舗装をこなせたことはすでに触れた。それは、その前に、次の1つの大仕事を選んだことが大きかった。
雨天を嘆き、茶話会で終わるかも、と心配していたら、最初の雨間。「せめて1つでも達成感を」と願い、庭に飛び出し、選んだ課題がヨカッタ。大量の薪を、囲炉裏場から風呂焚き場の側まで運び上げる作業だったが、期待以上の成果を収めた。後日1人で、新しい薪を下にして積み直し、保存状態にした。
今の私には、フウフウいいながら一輪車を活かして、10分ほどかけて運ぶことになる2束の薪を、女子大生も両手にぶら下げ、坂を駆けあがり、2分ほどで運びあげた。私の、休み休みの一仕事なら、雨が再び降り出したこともあって、どうなっていたことやら。
だが若者は雨が降りだすまでの20分ほどで片付けた。これで、有意義な日になった、と私は感じた。既に雨が降り始めていた。そこでゲストルームに引き揚げ、2度目のお茶の時間にした。雨は降り続き、昼食時間になった。
賑やかな食後中に、空は次第に明るくなり、防草土舗装を完成の域にまで仕上げただけでなく、3トンの土の一部も活かし始め、焼き芋にもあり付けた。
翌火曜日。朝一番の病院通いの後、11時に瞳さんと知範さんを迎えており、2つの懸案に当たってもらった。瞳さんは妻と、2年ぶりの大々的なミヤコワスレの植え替えに、知範さんと私は、多量のシホウチクを切り取る作業に当たったこの日のオヤツはウイロウだった。瞳さんのおかげで、初めて食す滋賀県の喜びだった。
この2つの作業を並行させことで、この秋はシホウチクのタケノコを、昨年同様に収穫できることだろう。ミヤコワスレの植え替え時に、はびこっていたシホウチクの根をずいぶん掘り出したが、これはタケノコの収穫から見るとマイナス要因。だが、シホウチクを皆伐したところでは、出たタケノコをすべて収穫しないと再び薮にして仕舞う。だから、プラス要因。今後は、再び薮にならないようにするのだから。
⑥
ウグイスが囀り、満開のエゾヤマツツジやシダレウメから3月は始まった。ほどなく紅梅のじゅうたんと日陰で咲かせた紅梅を同時に楽しみ、サクラの蕾を添えたサラダを楽しむことになった。
朝には、窓辺に小鳥が押しかけ、午後はその下で、ハッピーがお昼寝。そして畑では、プチベールが薹を立てはじめた。
東京から通う妻の2人の生徒さんと、今月もそれぞれ、朝のコーヒーをご一緒出来た。そのお1人は地域活動も始まったようだし、初めての人形を完成させ「飾りました」と、後日メールで知らせて下さった。
下旬も、来客に恵まれた。ミツバチのルアのー設置で、に始まった。高級老人ホームの現実が知りたくて。あるいは久方ぶりに静かに血がたぎる対話を、と願って迎えた方々や、花見のついでに立ち寄ってもらえた旧友に多々恵まれたからだ。
花が咲く菜園は楽しそうに見えるようだし、例年とは異なり、3か国語の新著『未来が微笑みかける生き方』を喫茶店で手にしてくださる方が多く、庭仕事に当たっている私に多々声をかけて下さる。このご夫婦は、質問の前に、挨拶してくださった。アメリカに移住したメキシコ人とのことだが、この生き方を本気でお始めになるかもしれない。
妻の姪が、はや十三詣りだった、と義妹が大勢を伴って訪ねてくれた。
こうした合間を縫って、1人で小まめに大小さまざまな庭仕事に取り組みもした。ディスクグラインダー仕事や電動ドライバー仕事は3つ。
短いが3本の畝作り。第1次スナップエンドウの花が咲き始め、2次と3次のツル釣り。
タマネギの畝を主に、3日に挙げずの液肥やり。インゲンマメやスーヨーキュウリの苗づくり。あるいは、シカから守るためもあってサクラなどに(夜間にはカバーをかぶせる)支柱たて。
もはや大仕事になったアケビの移植を日課にした日もある。自然生えの、チョコレイト色の花が咲くアケビを、白い花が咲き、さやも白い実がなるアケビの側に移した。
これは大仕事だったが、2つ目と3つ目の石畳道の防草対策は、3日に分けて取り組んだ。
その作業初日のことだ。清太君が訪れ、初めて手伝ってくれた。この1度で懲りずに、また自発的にやって来てほしい。生きものの「生きんが力」や、冬野菜を長期にわたって収穫する方法なども学んでほしい。
モミジの枝すかしもしたが、切り取った枝は妻が3か所で花材に活かした。
妻も、中旬以降は随分庭仕事に時間を割いた。私が準備した用土を用いて、ポットウォールを飾る鉢植えの六甲サクラソウを仕立て直すことから手を付けた。
次いで、オリヅルランとレモングラスの各10鉢ほどの土替えもした。大量の花芽を摘んで菜の花漬けにしたり、越冬植物を運び出す私の手伝いに当たったり、私が仕立て直した睡蓮鉢の後始末(水の入れ時を計り、ボウフラ対策のメダカなどを入れる段取り)に取り組んだりした。
それにしても、思い出すのは、もう1日、2度のおやつをだけでなく、昼食も庭に運んでもらい、大仕事の段取りや準備に精を出したことだ。
この折のインターブルとして、二葉葵のコーナーの石囲いを、余っていた石を活かし手こしらえた。おかげで、知範さんの方が「上手だ」と分かり、とても嬉しくなっている。