歓談。ゆかりさんは、既に鳥取に移住し、自家採取した種で野菜作りなどをする人たちと仲よく、農的生活をおはじめの様子。「立派だなあ」と思った。それにもまして、その想いを許したご主人も立派だなあ、と思った。と同時に「残念だなあ」とも思った。
楽しい歓談をおえ、見送りながら、やっと我が身(幾度か、人生に節目をつけて来た)を振り返ることができたようで、「これでよかったンだ」と思い直している。
ゆかりさんは一家言を持つ薬剤師だ。知識とキャリアに加えて人柄にも(私たち夫婦は)全幅の信をよせている。もし私がズウーッと以前から知り合えておれば、早め早めに相談し、先手を打って、未病の人生を送れていたに違いない、と思う。そのような人が早々と田舎暮らしを始め、簡単には相談出来なくなったことは誠に残念、と思ったわけだ。しかし、落ち着いて思い直し、「待てよ」となった。ゆかりさんの一部に過ぎないその専門的な才能やキャリアを当てにして、ゆかりさんの生涯全体を振り回してはいけないのではないか、この節目こそゆかりさんらしいのではないか、と思い直すことができたたわけだ。
さらに、ある医大が女子受験生の合格ラインを、男子より一律不利にする仕組みを作っていたことを知った時に、妻と交した会話も思い出した。
「私はむしろ逆だ、と思う」から始まった会話だった。妻は同調し、「そうよ、昔はみんな、お母さんが(各家族の)お医者さんだったのヨ」と断言調に応えた。その時に、私はありし頃を振り返っている。6歳になる手前で京都に疎開したが、その時の強烈な思い出だ。
住環境が都会から自然豊かな地に急変し、母は慣れない農業に携わることになり、子どもの世話どころではなくなった。おのずと私は、野山でハシャギまわり、ブヨに刺され、そこが膿んだ。木から落ちて打撲し、体をよじって耐えるほどの激痛を体験した。あるいは、野イチゴや笹の新芽の白いところを大量に食べ過ぎて下痢もした。その都度不安に襲われたが、それを救ったのは伯母だった。
もちろん母は驚いた。その騒ぎを聞きつけて伯母が飛び出してきた。父方の伯母の家に居候していたからだ。「ドクダミを採って来い」と伯母は母に命じ、台所に取って返し、スリ鉢とスリコギを取り出して来て、母の帰りを待ち受けた。
タップリとドクダミの汁を吸わせたガーゼを膿んだところに当てた。打撲には、ドクダミの汁でメリケン粉を軟らかく練り、ネルの生地に分厚く塗り、患部に当てた。あるいは、腹を傷めたときは、汁を飲ませようとした。この時のことだ、母は「なんでもドクダミで治るのですか」と口走り、伯母にコッピドク叱られた。「そやからジュウヤク(十役)と言うンや」と伯母は喝破。その自信に満ちた断言に安心した私は、ゴクリっと飲んだ。この安堵が効いたのか、この時も治った。
今にして思えば、母には対案はあったのだろうか。対案もなく、伯母の治療に不安を抱いただけではないか。この時に身に着けた学習だと思うのだが、私は人の提案を、確かな対案がない限り素直に聴き入れて、ありがたく受け入れてみるクセを身に着けたようだ。このやり方を身に着けておかげで今日がある。これも(伯母が買って出た)治療のオカゲではないか…
妻も無医村で中学生になるまで育っている。キット母親が、小児科だけでなく外科も内科も引き受けたはずだ。鎌の切り傷は今も手首に大きく残っている。1㎝程ずれていたら、出血多量で死んでいたに違いない。もちろん私も、あの時に、と思うことが多々ある。それも学習として今がある。
もちろん、女性は外科医には向かないなどの傾向はあるだろう。ならば、外科男子大を併設などすればよいだけの話だ。外科が不得手ということは、戦争も嫌いだろう。根本は、医者や病院などなかった時代から、女性は赤子を育て、食事作りを引き受けて家族を守って来たことだ。その良し悪しも遺伝子に刷り込んで、今日にいたっているのだろう。そうした根本の上に立って、何もかもを考え直す時ではないか。
なにせ日本は、男女同権を世界で最初に憲法に盛り込んだ(これはアメリカの押しつけと言えるが)国だ。であるにも関わらず、日本の女性の地位は先進工業国の中では最も低い。あえて言えば、これこそ憲法違反だろう。「憲法」にふさわしい地位を女性に与える「法律など」を作ってこなかった立法府の怠慢だ。あるいは伯母のような、生きる力を備えた啖呵が切れる女性を育てなかった社会の怠慢だろう。
要は、私は妻が造る食事で活きることを基本にしから、こうした元気を保てているのだろう。なんだかよく分らないが、とりとめもないことを思い出し、女性の尊さを再確認した。
ゆかりさんの思うところの幸せを第一にして、私の都合などは引っ込めなくてはいけない、と考え直したわけだ。論より証拠で、ゆかりさんが踏み出したいわば第2の人生の方が、汎用型AI時代を控える今日にあっては、はるかに尊い話ではないか。多くの人がモデルとして憧れ、学ぶべきで生き方ではないか。いずれ多くの人が、踏み出さざるを得なくなる生き方ではないか、と思い始めた。
ゆかりさんのことだ、キット鳥取の地で、伯母のごとき振る舞いの機会を見過ごしはしないだろう。それが子どもに真の生きる力に目覚めさせる最も望ましき好機なのだから。
ゆかりさんの同行者は、幼馴染のようで、日本の農政に、特にコメに深く関わりがある人と近しい間柄とみた。それがよかった。実は私は半世紀来、食料問題に興味を持ち、とりわけコメに感心を抱いてきた。それだけにありがたい出会いだ、と喜んだ。
コメが、ムギやトウモロコシなどと比して有する有利性に私は興味を抱いている。問題は、昨今の日本のコメがその想いとは逆方向へと走っていることだ。ドゴール大統領の言葉や、過日食した台湾の蓬莱米などを思い出しながら、そう思った。そう思う機会を与えられたことをありがたく思った。
中国はこの半世紀で、栽培するコメの種類が4万数種から1000種強に減ったと聞く。わが国も、江戸時代は少なく見ても3000種は栽培されていた。だが今や、指折り数えられそうなまでに減っている。私は、5000種は栽培されていたはず、と見ているだけに不安だ。インドはかつて、20万種のコメを栽培していたが、農薬や化学肥料などに甘え、つまり油断して、品種を激減させている。
欧米に出掛け始めた頃を思い出した。ドゴール大統領の言葉を振り返った。かつてアイルランドで生じたジャガイモ事件も思い出した。目先の有利な品種に絞り込み、それが災いに転じた時に直面した悲劇だ。ドゴールは、食料を100%自給することをもって国家と見なしていた。西ドイツの大統領は、食糧の自給率が8割を切れば「もはや国家ではない」と喝破した。そのころのイギリスは、4割を割っていたので、私はイギリスを笑った。当時、わが国の自給率は8割ほどあったように記憶する。
ところが今や、わが国は4割を切っている。イギリスは逆に、当時から植民地を減らしながら、自給率を7割近くに高めている。これが政治の根本だろう。日本丸はこの先、どこを目指して進めばよいのか。進もうとしているのか、こんなことを考えたくなる歓談の一時を感謝した。
時は今、インドネシアでアジアのオリンピックが開かれている。同国はちょうど20年前に、極端なコメ不足問題を抱えていた。時の大統領は国民に断食を呼び掛け、拍手も受けていた。週に2回の断食で、不足する300万トンの輸入をせずに済む、と呼びかけた。それは宗教が許す発言だろうが、強い国のように思った。わが国は、メタボや糖尿予備軍を救う話に結びつく。