残念。西日本豪雨災害の最中のことだ。この度の全国的な豪雨での最初の避難指示は、わが家がある京都市の右京区で7月5日の20時28分に出た。最初の災害救援要請も京都府が21時19分に出し、自衛隊が出動した。その間にあって首相他自民党の国会議員が予定通りに赤坂自民亭に集合し、宴席に集っていたわけだ。めいめいケイタイを持っており、時々刻々と情報交換できた。
被災地では、緊迫した状況であることを知りながら宴を続け、Vサインを出して記念写真に収まる議員をだし、その写真に首相も治まった。
その事実の是非はまだしも、あろうことか、その中の2人が、このハシャイだ姿を収めた写真を、ツイッターで勝ち誇ったかのように天下にばらまいた。それが保身や利益の源泉だと思ってのことだろうが、ア・サ・マ・シ・イ。私は戦時中に、満員電車で耳にしたエピソードを思い出した。
憲兵と仲良く一緒に収まった写真が「お守り」になる、と語らっていた。今にして思えば、特高警察などが恐ろしかったのだろう。嫉妬されるだけで、あらぬことを密告された時代だ。そうした写真を持っていると、あらぬ密告をされずに済んだのだろう。母に「ケンペイって、何」と尋ねたことを思い出した。今は金権時代に代わっている。
国有財産や税金を、あらぬ活かし方をしてもうそぶいて通せる権力に近づいておくことが、票田に結び付き、それが岩盤のごとき支持率の維持に貢献するのだろう。ナ・サ・ケ・ナ・イ
オウムの教祖他13人の死刑囚の内、7人の処刑を知った時に、私は思い出したことがあった。7人という数字がそうさせたのだろう。だが記すまでもないこと、と思った。多くの識者が、真相解明ができていないし、7人のうちの6人が控訴審を求めている。なぜ、真相の解明に努めないのか、と指摘していたからだ。だが、残る6人を、そそくさと処刑した時はさすがに不安を覚えた。
もちろん私は、オウムが犯した罪を許せないし、あってはならない悪しき犯罪だと思う。だからこそ、真相を解明してほしかった。麻原彰晃は強度の弱視だったが、実兄は全盲に近いという。水俣病の被害者らしい。これを「ピン」の例とすれば「キリ」のごとき事例もある。
国松警察庁長官狙撃事件はオウムの犯行だと思っている人が多いはずだ。地下鉄サリン事件はこの事件の10日前に生じており、地下鉄サリン事件の被害者も国松狙撃事件はオウムの犯行と思い込んでいる。時効時には、公安部長は「オウム信者グループにより敢行された計画的、組織的テロであった」と述べている。だが、真実は別にあったと分かった。
『宿命』という一書を最近著した原雄一は、警視庁捜査第一課勤務時代に国松警察庁長官狙撃事件の捜査にも関わり、ついに真犯人・山本を(大量の証拠品に基づき自供も得て)特定していた、と明らかにした。だが当時、捜査本部は先入観に固執し、中村逮捕に至らず、時効を迎えた。問題は、中村の捜査に関わっていない幹部が、中村について憶測で不確かなコメントを発するに至り、それが真実として流布するのを怖れて原雄一は勇を決して『宿命』の出版に至ったという。
こうしたことを含めて、徹底解明して、真相を明らかにすべきだろう。さもなければ、国は活気づかない。乾いた雑巾を絞るがごとくの「働き改革」などは愚の骨頂だ。絞る方と絞られる方に、人を分断する恐れがある。そうしたことをなくさなければいけない時代だと思う。
こうした気持ちが、7人の処刑ということもあって、不気味な思い出を呼び覚まさせたのだろう。戦前の特高警察を思い出させる共謀罪法ができたせいもあるだろう。
「デスバイハンギング」「デスバイハンギング」と、次々と読み上げられた70年ほど前にラジオから流れて来たA級戦犯7人の名前だった。世界が注視する中で、2年の歳月をかけて裁き、犯罪者として確定し、死刑を宣告した。
この7人が、山本五十六の撃墜死ではないが、一斉に撃墜死事件にまきこまれるようなことが生じていたら、どうなっていたか。一瞬は日本中が震撼したことだろうが、間違いなく終戦を早めていたことだろう。たとえば、中国での苦戦時に,矛を収める意見が出たが、その時は東条のこれまでの「10万の英霊」の死を無為にするのかの一言で泥沼に入っている。
この出来事が連合艦隊が実施的に壊滅したソロモン海戦時であったとしても、東京の被災はもとより、広島や長崎の悲劇を始め、沖縄の犠牲はもとより、200万人以上の日本人の命を救い、もちろん1000万の桁におよぶアジアでの命も失われずに済んでいたことになる。
余談が過ぎるが、ならば石橋湛山が唱えていた日本の処し方が軌道に乗せられ、今以上の繁栄を果たしていたことだろうし、未来世代に残しかねない負の遺産の多くを既に清算し、アジアでの対立などを免れていたに違いない。しかし当時は、東条たちに代わりうる人はいないと思う国民がいたし、東条たちもウウソ(大本営発表など)をつきまくって権力の席にしがみついていた。
だからだろうか、その後、日本政府はこの7人を国内的には「公務死」として、靖国神社に合祀した。そういう私も、当時はそれで当然かのように思っていた。教師の中には原爆被災者もいたし、都市爆撃の資料も読んだ。多くの人が「カタキをとってください」とか「仇討ちを!」との願いを残し、もがき苦しみながら死んだことを知っていた。当然、私は同情した。
だが、今にして思えば、アジアの他の国では、この何倍もの同様のココロの内を吐露しながら死んでいった人がいたわけだが、(教科書になく)知る由もなかった。
海外出張が増え、外から内を見るわが目に気付かされ、信憑性が高い資料を気にかけるようになり、さまざまな真実を知らなければ、との思いが沸き上がった。
いろいろなことを知った。色々なことを知ってから、日本が毅然たる態度で世界に相対し、毅然として歩みたくなったし、歩む上で少しは貢献したい、と願うようになった。
そのころは、日本は驚異的な成長を果たし、アジアの人たちから同胞の優として憧れの対象になっていた。アジアの優になることが求められていた。9条の堅持がその期待を担保していた。
だからだろうか、さまざまな事実を素直に吸収でき始めた。たとえば、日本は職業軍人を主に、国家予算の1割ほどを恩給などとして毎年支払い、今日までに60兆円以上もつぎ込んでいる。東条家は、大卒初任給1.3万円時代に53万円の年金から支払いを受け続けた。だが、一般国民は「必勝」を信じ込まされ、さんざんひどい目にあいながら耐えたが、いまだに受忍を強要されている。
現首相はことあじあるごとに、310万人の犠牲の上に今の繁栄があると述べるが、ドイツはこの倍の犠牲を払ったが、誰もこれに似た発言などしていない。それもそのはずだ、と思った。ドイツはなんと、1600万とも2200万ともいわれるソ連人を始め、少なくとも3000万人もの犠牲を欧州方面で強いていたからだ。当然、ヒトラー政権の閣僚が戦後の政権に席を占められるはずはない。今も、70年以上も前の戦犯を訴追している。それが反省であり、それがドイツを欧州の盟主のごとくにしたのだろう。
その眼で我が身を振り返った。衝撃を受けた。日本は教科書では中国に1000万人の犠牲を強いたと教えていた。だが、世界はその犠牲数を2100万~2300万人と見ていることがわかった。中国のほかにも1000万人近い犠牲を強いていた。ならばなぜ、ドイツのごとくに反省しないのか。
なぜ東洋の優のごとくに東洋の人たちから憧れてもらえていた時代に、9条を担保にして、東洋の良きリーダーのごとき立場を甘んじて受け、東洋の繁栄に貢献しようとしなかったのか。
オウムの7人が処刑されたときに、ふと思ってしまった。私を含む日本人から見たオオムの姿は、世界から見た旧日本の姿ではないか、と。旧日本も、毒ガスや細菌兵器で多くの人を殺している。
それが戦争というものであり、だから日本は9条を持ち、戦争そのものを反省している、と胸を張って叫べるのに張っていない。また、とりとめのないことになったが、これが真の愛国心の源泉だと思う。
おりしも、インドネシアでは今、アジアのオリンピックが開かれている。競技以上に私たちは注視すべきことがありそうだ。17000からの島に、300民族の2億人からの人が住まい、700もの言語を用いて心を1つにしようとしている。これこそ学ぶべきことでないか。