5日水曜日、10日ぶりに庭仕事に就けた。これが師走上旬のトピックス。朝に未来さんからケイタイで「午後2時から…」と連絡があり、本格的に腰をあげたのです。もちろん常ならこうは記しません。1日は、朝にモッテノホカをいただき、夕に夫婦で昔の顧問先の、今は会長に、素敵な食事に招かれました。過去2度のお誘いが台風で流れ、そのリベンジでした。2日は詩人の山口さんが妻を訪ね、嬉しい写真をくださった。3日は新著の最終校正と夜は地域の「町しきもく」の打ち合わせ。4日は朝に、久しぶりにイノシシの被害を妻が2か所で見つけ、夕にその1つ苔の補修と侵入口の発見。侵入口を塞いだ私は、残る1箇所・堆肥の山を見てニンマリしました。こうして5日。再び妻がイノシシの被害を見つけ、その尻拭いを未来さんとしただけでなく、石畳道の(親水性舗装をするための)下ごしらえに日没まで当たることができたわけです。咳は朝から収まっていました。
上旬第2のトピックスは、8日土曜日に、風邪は「もう大丈夫」と思ったことです。というのは、この2日前の6日に調子づいて、堆肥の山の補修に手を付け、風邪をぶり返していたのです。だが2日後に佛教大の吉川さんを迎え、ほぼ終日庭仕事に当たることができた、という次第。その間は屋内にこもり、中国旅行報告書のまとめや、知範さんを迎え、月記の中間作業に当たるなどしていました。翌日曜日は関さん母子の年末の挨拶の後、コイモとナスの跡を仕立て直し、第2次スナップエンドウの種をポットにまきました。
雨勝ちだった中旬のトピックスは、生まれて初めて抱き人形に恵まれたことです。まず10日。午前に伴さん、午後に柴山さんの来訪。加えて網田さんと財木さんの声を聴き、アイトワ塾を偲ぶことから始まり、その後も多様でした。妻に風邪を移した。義妹にもらったタマネギ苗を植えた。恭祐さんと剪定作業の後、あるレクチャー。入れ替わりに知範さんを迎えPC作業。そしてヤーコンの一部刈り取りなどを経て、2泊3日の出張に。この出張には忘年会も組み込まれており、抱き人形をゲット、となった次第。この間に本格的な霜が降っており、帰宅翌朝(16日)に初氷。朝の室内温度は一桁になっていました。
中旬第2のトピックスは17日(月)午前中のこと。久しぶりの快晴になり、庭仕事を満喫、です。ナタ仕事のあと、除草。そして霜で萎れたダチュラやズイキを刈り取って堆肥の山を補修。畑はスッカリ冬景色。冬野菜がムクムクし、収穫忘れのハナナが可愛い。午後は小雨が降り出し、越冬用水槽の防寒対策をし、その後は書斎にこもりました。この間の橋本宙八夫妻と明朱花さんの来訪が楽しかったし、妻が生徒さんと取り組んだ3人目の人形集づくりに当たる姿が印象的。そして、その後の2日間は快晴に恵まれ、丸々庭仕事に当たることができたのです。その後、イノシシの被害はありません。
かくして、この年最後の下旬になり、楽しい朝のコーヒーから始まりました。アイトワの生き方も取り上げた論文で博士号をとり、それが縁で東京から通い始めたもう1人の妻の生徒さんで、早朝の新幹線でご到着でした。この日から年末の来訪客が増え、雨勝ちの日が続きましたが、25日までの間に、4つの出来事をトピックスに数えました。先ず快晴は翌日の午前中のみで、すかさず畑に飛び出し、残るヤーコンとコイモを掘り出し、「室」で越冬に。次は土曜日に2つ。高安先生を迎えて歓談。入れ替わりに恭祐さんを迎え、さまざまなPC作業。残る1つは風邪で一家がダウンした知範さんと、日曜日に月記の活用策を相談したことです。かくして25日。明日からアイトワの年末休暇という日に、アナグマ(?)の侵入を妻が発見。妻と2人で補修に当たりながら、恒例の年末年始を迎える心積もりを語らいました。26日以降は、来年1月の月記に回します。
~経過詳細説明~
11月1日。モッテノホカ 1,2 がついにアイトワの庭にやって来たし、素敵な食事 abc にも恵まれた。2日、「孝之さんの巣ごもり」と妻が言う作業中に、過日お越しになった山口さん d が、嬉しい2葉の写真を下さった。「緑の天蓋」の剪定中だったが、手前の2本目をほぼし終えた時 3 と、挨拶を交わした時 4 の2ショット。8日後の吉川さん来訪時に、残りの木の剪定 5 をし、完成させた。この作業は、1人だと2倍以上の時間(脚立の位置を変えるたびに落した枝を自分で運び去っておかないといけないなど)を要す。この日は、まず吉川さんと、パーキング沿いのサルスベリ、トチュウ、そしてミニザクロの剪定を片づけ、ほぼ終日庭仕事に当たりエゴも片づけた 6,7 。その合間にイモを堀り 8 、焼き芋も楽しんだ。ちなみに、この時にサツマイモの葉柄を前もって収穫しておいてヨカッタ。残した分は霜に打たれてしまい、キンピラなどの食材に活かすわけにはゆかなかった。
3日には嬉々として新著の最終校正に当たり、年内に見本刷 9 が完成した。私はバブルの兆候に触れた1986年に企業勤めを辞め、想うところを著作にまとめ始めた。それは同胞(ホワイトカラーやブルーカラー)への警告(リストラにおののかなくてよい人間・ビブギオールカラーになっておこうとの提唱)でもあった。当初は、著作活動の総仕上げは『次の生き方』のつもりだったが、『エコトピア便り』という「おまけ」のごとき一著を創る機会に恵まれた。さらに小冊子『アイトワ12節』が必要になり、リズさんと喜田さんの協力を得て二か国語版を作った。なぜなら、目には見えない「何か」を大切にする(北欧や欧州などの)方々の要望に応えたかったからだ。その後、中国第18次全人大の「五位一体」に衝撃を受け、劉穎さんの協力を得て日英中三か国語版丸 10 に改めようとしたが、その過程で45年前に見定めた「理念」(「何か」の源泉)に関心を示してくださる声に触れ、「ならば…」と、新著『未来がほほ笑みかける生き方~AI時代の自給自足~』として仕立て上げることになった次第。
幸いなことに、この過程で若者との出会い、桑原恭祐さん、次いで下村知範さん、さらに大園未来さんとの出会いに恵まれ、嬉しくなって1986年から店頭の一角に掲げてきたビブギオールカラーの「理念」を日英中三か国語版 11,12 に取り替えた。
4日。「間違いなくイノシシ(の仕業)です」と妻の報告。コケの補修 13,14 はその日のうちに妻が。堆肥の山では、上部を(1.5mほど)横に押しやり、下部の腐食部を丸出しにしていた 15 。それを見て私はニンマリ。妻は「バカみたい」と怪訝な顔。だが3時間後に喜んだ。そこ(ミミズが沢山いる腐食部)は私が堀出したいところ 16 であった。イノシシのオカゲ(?!?)でやすやすと小さなミミズ(大きいのはイノシシの腹に入った)を捕って、水槽に放り込めた。妻はそのミミズにパクリと喰らいついたイモリに「久しぶりに生の餌が食べられたネ」とニッコリ。調子づいた私は、ミミズを堆肥ごとスコップ一杯分バケツに捕り、水槽の側に持ち込んだ。後日、越冬水槽の防寒対策 17 。さらに1週間後、夜間用カバー 18 も手当し、外気が氷点下になる時期に備えた。
そして5日。再侵入したイノシシの被害は未来さんと尻拭い 19,20 。侵入口は妻が見つけ、私が前回同様に鉄棒で補修 21 。その後、日没まで未来さんと石畳道の(親水性舗装をするための)下ごしらえ 22 に当たったが、この時点で咳は収まっていた。
6日、またもやイノシシが侵入。「ここかも」と妻が見つけた穴を、「ここかなあ」と思いながら私は補修 23 。調子に乗って、堆肥の山の補修にも手を出して汗だくになり、咳をぶり返し、再びダウン。妻はオカンムリ。だが、私はゴマンゾク。
毎日出る生ゴミはバケツに溜め、堆肥の山に捨てに行くので、気になっていた。いずれは補修を要するワケ。そこで、イノシシが押しやった位置で仕立て直すことにしたわけ。ならば来年私がすべき作業が(例年より4カ月前倒しした格好で)省ける勘定。だから躍起になって(あとは次々と井桁状に畑や庭からでる残渣を積めばよいように)形に仕立て直し、汗だくになってしまった次第。
庭仕事で言えば、8日の「もう大丈夫」の後は、タマネギ苗80本の植え付けなど「慣らし運転」程度の日々でした。本格化は17日月曜日久しぶりに快晴の朝から。
メールも開かずに庭に飛び出したのがヨカッタ。恭祐・知範両君を朝から迎える予定だったので、受け入れ準備で飛び出したが、ヤーコン、コイモ、ササツマイモ、帝王ダリヤ、あるいは(今年は初めて蕾もつかず、冬を迎えた)ダチュラ 24 などを刈り取り、堆肥の山の補修 25 までしてしまった。夕刻にメールを開き、急遽欠席を知った次第。
それはともかく、2泊3日の出張前に、茶葉として活かすヤーコンの葉 26 を刈り取り、イチジクの未成熟の実 27 も甘露煮にするために摘み取っておいてヨカッタ。この間に本格的な霜が降り始めており、初氷も張った。16日(日)は雨になったが、おかげで橋本宙八夫妻と明朱花さん 28 とゆっくり歓談できた。夫のカールさんと2人で切り拓く生活のアイデア―を提案させてもらった。何せ北欧は、私にとって移住まで考えた憧れの地であったのだから。ちなみにイノシシの被害はその後なし。ということは、2つのことが分かる。
妻は「生徒さんの人形集」づくりに取り組み始めた。これが3人目。日本人形が得意 29 な方であり、私が敬愛する造園師(京都迎賓館の造園主軸)夫人。夜は夜で妻は、「どうしてもX’masにお届けしたいの」と言って、元生徒さんの人形 30.30-2,30-3 を仕上げ始めた。この昼夜の活かし方がとても印象的。なにせ「カシラも、衣装も出来ているのに」あとは組み立て上げるだけ、と言う。あるご都合で創作に取り組めなくなったが、ココロの内では創作が続いているはず、と見てのこと。なぜか私は元気付けられ、2日続きの快晴にも誘われて丸々2日、庭仕事に没頭することなった。1日は主に薪作り 31.32.33 。もう1日は収穫忘れのハナナ 34 を愛でながら、すっかり冬景色になった畑 35 の手入れ。さらに次の21日午前中の好天を逃がさず、ヤーコンとコイモを「室」で越冬させた。
30-2 30-3
モッテノホカに始まり、嬉しい贈物にも恵まれた師走だった。あと1つで十二支が揃う酒杯 36 。妻の生徒さんのご主人が手作り。勤めた短大がお世話になっていた紡績の社長さんの作。アロマギフト 37 。夫婦づきあいするバラ農家のバラをさちよさんに紹介した1つの結晶。さらに、商社時代の先輩の意志を「負けて勝つ」方式で見事に継いだ夫人の一著 38 。天の恵みもあった。サワガニとシイタケ。甲羅にMのマークを背負う 39 1匹を妻がカフェテラスで見つけた。56年ほど前に庭に放したサワガニの末裔。そして270gのシイタケ。
中国旅行時の関空での別れの後、高安先生との初面談。この間に鑑賞されたと言う映画 41 の印象をメールで問い合わせたところ、「これです」とお迎えできた。これで6人すべての旅仲間と、その後お目に掛かれたわけで、二重の喜び。津の吉の息子一家を迎えた折の、妻特製のジュースにニニッコリ 42 も、嬉しくなった。恭祐さんに来てもらえ、新著の宣伝を兼ねた年賀状 43 になったとはいえ、無事に投函できたのも嬉しかった。風邪でダウンの知範さんとは、ネットに1度載せた月記の添削をした時は、その足跡を残す工夫をして、ある種の活用策と見なすことにしたが、これも。かくして25日を迎え、ホッとしたのはつかの間、苔庭が荒れに荒れていた 45 ことを発見。道行く人から丸見えの苔庭。妻は「アナグマ(の仕業?)ヨ」 46 との見立て。2人で補修に午前を要した 47 が、余りが出たのでチャンスと見た。余りの苔を、ユーティリティの屋根 48 の補正に活かした 49 わけ。屋根の張替え時に、30年の歳月が張らせた苔を剥がしたが、うまく剥がせず、捨てざるを得なかった文が多かったから。苔がはえた元の屋根を、結構多くの海外観光客が写真に収めてくださったから、再来時に「苔がなくなった」といってガッカリされたくなかったわけ。たとえばこの冬、1つの小さな人形が人気を博した。それは、少女時代にアイトワに立ち寄った女性が、かつて自分が抱いて感激した人形が残っていたので、その娘に抱かせ e 、再度感激してくださった。