デンマークに出かける予定があった9月の初め、PCと取り組んでいる時に「ついに来たか」と思いました。右目が一時的にブラックアウト。痛くも痒くもなし。「何じゃ、あれは?」と、過去を振り返りながら、翌日からの国内出張の準備で書斎に移動。これが気をまぎれさせました。
翌早朝から2泊3日の出張では、とても大事な時点に立ち合えて感激したり、二朝共に寝坊をして「7時間も眠れるンだ」とビックリしたり。帰宅は4日の夜。駅に出迎えた妻が「激しい雨と落雷が怖かった」と夕刻を振り返っていました。そして翌朝、右腰背部に鈍痛。庭仕事は控え、終日PC作業や資料の整理。強い雨と青空が断続的に繰り返す悪天候の1日でした。
6日ぶりに温室に行くと、妻が冬野菜の準備を始めていたことを知りました。10時に知範さんを迎え、月記8月分原稿を引き継ぎ、午後は腰痛を押して、畑仕事に知範さんを誘って粗耕しを頼み、私はトマトなどの支柱の解体に当たりました。翌日は終日書斎で休養。ある読書と資料の整理。もちろんメダカの餌やりなどルーチンワークは欠かしません。
かくして日曜日。腰はほぼ旧に復し、2週間ぶりの朝飯前の一仕事。知範さんが粗耕しした後の仕立て直し。この日からインゲンマメの収穫が始まり、感激。その後、火曜まで連日朝飯前の一仕事に取り組み、トウガラシ、ゴーヤ、そして第4次トマトの畝を解体。第2次ナスの切り返し。ブロッコリーとネギの苗を植え付け。あるいはトウテイランの鉢の手入れなどをしました。来客は月曜日から再開。かく上旬を過ごしたのです。
中旬初日は朝寝坊し、朝食を挟んで2度、畑に出ました。期待通りに未来さんから電話。午後から迎えましたが、残念ながら小雨に。でもドラマチックな1日になったのです。
次の2日間は心臓の運動負荷検査や24時間検査で通院。2日目は期するところがあり、小雨をついて朝飯前の一仕事。これが妻に見つかり、小言を喰らいました。しかし、無理してヨカッタ。その後デンマークに出かけるまでの5日間で畑の様子を一変させることができたのです。アイトワ菜やノラボウナを始め直まきの畝が3本もできましたし、チマサンチェや混合レタスなどの苗床も用意。草刈りにも精を出し、佛教大生を迎えた16日は、カキ殻の有機石灰づくりや竹の支柱の収納などに当たり、自然生えトウガンなどの収穫をはじめ、囲炉裏場の整理も進み、見事な焼き芋も楽しめました。
中旬最後の3日間は2度未来さんの助力を得たおかげで、冬野菜への切り替え作業にハッスル。14日来の好天にも恵まれ、9日間の留守を読んだ手も打てたのです。
この間に、橋本宙八夫妻や森田知都子さんほか来客や、有難い贈り物にも恵まれ、2~3の原稿の手直しにも当たれました。9泊10日の久しぶりの夫婦揃っての旅に備え、歯の点検やさまざまな準備にも当たりました。ハッピーの世話の手はずやイモリや淡水魚の水槽掃除もその一環です。今回はとりわけ、留守中の引継ぎ作業に念を入れました。それは、留守番だけでなく、帰国当日に失敗学会の分科会開催がアイトワで予定されていたし、急に台風が発生したからです。それらの受け入れ準備や交信準備も手が抜けません。
デンマークでは、ハムレットの舞台、アンデルセンの想いの源泉、あるいはバイキングの息遣いにも触れ、ヒュッゲというデンマーク独特の言葉を掘り下げたくなるなど様々な収穫に恵まれました。帰国は28日早朝で、この日の午後、アイトワで失敗学会分科会の勉強会があり、チョッと緊張。義妹の野菜と、その後の新聞の整理で「1つの地球ですませたい」との若者の心に触れ、心が和みました。この世界的且つ加速度的な広がりに、やや日本の若者は乗り遅れがちのようですが、少し私も責任感のようなものを覚えました。
~経過詳細~
9月は、冬野菜の準備が急がれるひと月だし、下順には夫婦で久しぶりの海外旅行を予定していた。にもかかわらず、出だしで少し焦った。まず初日、2泊3日の国内出張を翌日に控えていたが、予期せぬ支障が右目に生じたからだ。
次いで帰宅後、気まぐれな雨に加え、夏の疲れもチョッと出たようで、8日までまともな農作業には着けなかったからだ。
だが、この間の6日金曜日。知範さんを迎えたが、この日が一つの節目になっている。それは2泊3日の出張中に、妻が冬野菜の準備に取り掛かっていたことを知り得たからだ。
朝一番に、「月記」用写真の撮り忘れに気付いて庭に出た。畑は夏野菜がジャングルのように育っており、まともに踏み込めず、途方に暮れた。
やっと温室にたどり着いだが、そこで心が和んだ。留守の間に、妻が冬野菜の苗床づくりに手を付けたり、ブロッコリーとネギの苗を買い求めたりしてあったからだ。
10時に知範さんを迎え、月記のデーターを引き継いだ。その後で「短時間だが」と断ったうえで畑に誘った。それがヨカッタ。知範さんに「なんとかして粗耕しの体験でも」と考えたのがヨカッタ。私も付き合って、トマトなどの支柱を解体し、そのクズの後片付けに当たっていると、次第にやる気が起こってくるのが分ったからだ。
粗耕しとは、私流だが、作物を収穫し終えた(支柱やクズなどを片付けた)後の畝を、肥料を鋤き込みつつ耕しながら、邪魔なもの(ドクダミやスギナなどの根、石ころ、あるいはヨトウチュウなど害虫)を取り除く作業である。だが、知範さんにとっては初体験と思われたので、肥料の鋤き込みや邪魔なものの取り除きは(次回以降に順次マスタ-してもらうことにして)割愛し、スコップで掘り返す作業だけに当たってもらった。
この知範さんと手がけた当月最初の畑仕事と、妻の冬野菜の苗の準備に、なぜか背をポンと押されたような気分になり、勇気と責任感のようなものが頭をもたげた。にもかかわらず、翌日は、雷まじりの雨になってしまい、書斎にこもらざるを得なった。
妻が温室で用意してあった苗床は、8日の朝一番に運び出し、直射日光を浴びせ始めた。これは、種を畝に直まきしたのではコウロギなどに種を食ベられかねないからだ。温室で苗床にまいて発芽させ、ある程度育てた上で日当りがよい(しかも、なぜか新芽を好むバッタなどが近付かない)コンクリプールの上に移動させたもので、いつもの作業であった。
次いで、朝日をあびながら畝の仕立て直しに取り掛かった。そこは、知範さんが粗耕ししたところで、有機肥料を鋤き込むなどして冬野菜の畝の形に仕立てあげ、水をタップリまいた。いつでも播種や苗の植え付けができるようにしたわけだ。この日は昼食を居間で、人形教室の生徒さんと同じメニューをとった。その時に見知らぬ夏虫が室内に飛んできた。フト秋を感じた。食後は書斎に詰めた。
その後、水曜日まで4日連続で朝飯前の一仕事に精を出した。トウガラシ、第3と第4次のキュウリ、第2次のナス、そしてゴーヤの畝を片づけると、大量の使い古した支柱とツル野菜などのクズが沢山出た。
クズは堆肥の山(の中央部に深いくぼみを作るよう)に積み上げ、生ごみを放り込めるようにした。
トウテイランの鉢の手入れもした。洞庭湖の水の色を思わせるという花が咲き始めたので、テラスにデヴューさせるための掃除であった。
さらにブロッコリーの苗と、ネギ苗の3分の1を植えつけ、残した3分の2は翌日以降に(ワケギの芽が出なかったところなど計4カ所に)幾度かにわたって植え付けた。この作業は、干し上げられたネギ苗をその都度整理(根の部分と葉の部分の中程で切り分け)して、根の部分を植え付ける作業だが、私流にひと工夫する。それは切り残した部分の活用だ。とても面倒な作業だが、綺麗に掃除をして台所に持ち込むと、とても妻に感謝される。路地では青ネギに不自由する時期であるだけでなく、干し上げられながら残っていた青い部分は香味にあふれており、ソーメンの薬味などに生かせば抜群であるからだ。
この間の7日は、よきインタ-バルの1日になった。強い雨とその合間に繰り返す雷鳴に驚いたが、妻は「こんなもんじゃありませんでした」と、2泊3日の出張中に生じた落雷の様子を再び持ち出した。よほど驚かされたのだろう。
この日は終日、厳しい残暑(当日は、残暑とはまだ思っておらず、夏の盛りと感じていた)を避けて書斎にこもり、読書と資料整理に明け暮れたが、もちろんメダカの餌やりや温室の水やりなどのルーチンワークを織り交ぜた。
読書はある一冊と、他に幾冊かの乱読だった。一冊はデンマークの前半でお世話になる人の著作だった。医師夫妻からいただいたものでもあり、こころして熟読のうえ同道し、著者サインをもらうことにした。実は私には頭にこびりついていることがある。それは言葉と文字、話しと文章、口約束と契約書、あるいは言い逃れと背水の陣とでも言えそうな程の差異であり、その取扱いである。
乱読は、旅の友にする書物を選ぶ作業であったが、その最中にフト岡田さんを思い出した。前週の四国旅行で松山のお宅に招かれたが、その書斎をのぞかせてもらい、羨ましく思った一時のことだ。私は音読するがごとき時間を要する読書法だから1~2冊だが、岡田さんなら数冊は、と羨ましく思った
書斎での資料の整理は、このところは1つずつテーマを絞り、さまざまな角度から考察を加え、ある願いをかなえようする作業になっている。それは、死ぬまでに「その予兆だけでも」と願っての足掻きであった。私は既に工業文明は破綻しており、次のパラダイムに踏み出している、と見ている。世の中がこの認識で一致する時とそのありようを見極めてから死にたい、と願っている。それだけに、次のパラダイムの確かさ(例えば、欲望の解放から人間の解放への転換、つぶす喜びから創る喜びへの移行など)の精度を上げておきたい。これは「第4時代到来論」を思いついた1973年来の願いだ。
そのような想いを抱きつつ、夜はTV録画から2本を選んで鑑賞した。1つは8/17放映のNHKBSスペシャル「戦争花嫁たちのアメリカ」であり、他は9/13放映のNHK-かんさい熱視線「女たちの戦争 国防婦人会の記録特別版」だった。
この対比は
日本の理解度を深めさせ、いよいよ近づいてきたデンマークの旅の楽しみを倍化させた。と同時に、昨年の3度の海外旅を振り返らせた。同じ日本の植民地であったにもかかわらず、対日観を180度異にしていると観た台湾と中国東北3省(傀儡満洲国)並びにその中程と観たダナン一帯(ベトナム)を思い出し、その理解度も深めさせることができたように思った。我が国は一周遅れの道のりを躍起に駆けていたわけだ。
この夏は、異常高温と厳しい残暑に惑わされ、手痛い無駄をした。まず、初めてインゲンマメの「花は咲けども実がつかず」を体験した。それはどうやら、異常高温そのもののセイではなく、昆虫に異常高温が及ぼした悪影響のセイのようだ。秋の気配と共にインゲンマメが実り始め、感激すると同時にヒラメクところがあった。
それは、収穫したてのインゲンマメを妻が鼻高々で私の目の前に差し出して、生のままかじらせようとした時のことだ。妻は畑で、既に試食したらしい。実に「うまい」。
その後、サッと湯がき上げたものを持ってきて、再度すすめた。さらにウマイ。妻はポリポリと2本目を自慢げに食べていた。「さては!?!」とヒラメクものがあった。
インゲンマメのみならず、モロッコマメも実り始めた。食卓は賑やかになった。
当月最初の来客は、ファーストネームで呼び合える僧侶父子だったが、本年のインゲンマメ事情も話題にのぼった。その最中に、2人は時を同じくして同じことを思い出したようだ。私が「アインシュタイン…」と声に出すと、「ご明察」とでもいったような笑顔が返って来た。アインシュタインは、世の中からミツバチがいなくなると「人類も…」早晩滅びるだろう、と言ったような至言を残している、と聞いたことがある。
「そうか!」「そういえば?」などと思いを巡らせた。異常高温の頃には花粉を媒介するハチの姿に触れていなかったように思う。間違いなく、ミツバチの姿は見ていない。「来年は、注意して観察しなければ」と思った。
その後、ほんの1週間ほどで、「暑い」「異常だ」とのぼやきは不要になり、畑は様子をすっかり変えはじめ、一帯で昆虫が舞い始めた。シカクマメがたわわに実り始めた。
「しまった」と思った。厳しい残暑に惑わされ、ナスビを切り返す時期が遅すぎた、と気付かされた。「今年はまだ、ナスとミガキニシンの煮つけを味わっていなかった」「ひょっとすれば、秋ナスを楽しめないかもしれない」。ならば「あれで」と、切り返したまま放ってあった枝からウラナリのようなナスを切り取り、台所に持ち込んだ。
第6次のトマトの畝まで用意したし、「ひょっとすれば今頃からでも…」と試みたキュウリの畝さえある。路地では到底実を育てそうにない、と気付かされた。
ゴーヤは大豊作の年になった。自然生えが随所で芽吹き、丁寧に育てたおかげで幾度もゴーヤチャンプルが食卓にぼった。モロヘイヤも豊作だった。オクラは逆に、育て方を失敗した。木を大きく育てすぎて、実のつき方を減らしたようだ。
2種のツルムラサキも好調だった。従来種は自然生えで十分賄えるほど土の中に種が混じり込んだようだ。巨大化する方は、F1だから種がとれないが、実に立派に育った。
トウガンは、今年も自然生えのおかげで大きな実がとれそうだ。もう1本、遅れがけに芽が出た自然生えにも実が2つついているが、これは成熟するか否か心配だ。
なぜカボチャが不調なのか、と不思議に思っていたが、遅がけに小ぶりとはいえツルクビカボチャを1本収穫できた。先に、サルに襲われた後の一本だ。これら数少ない収穫物を大事にワークルームに持ち込んで、保存し始めたが、随分にぎやか感を醸し出せた。きっと、妻の心を豊かにできるに違いない。
ツルクビカボチャは他に3本ほど実を結んでいるが、あとのトウガンと同様に、気温の低下やサルのいたずらで、どうなることやら。
かくして夏野菜のシーズンが終末となり、奮闘の甲斐あって畑には直まきの畝が3本も用意できたので胸をなでおろした。さらに、旅に出る直前の2日にわたり、未来さんが来てくれたおかげで、新たな2本の畝を追加できたし、前もって腐葉土を鋤き込めなかったネギやワケギの畝にも彼女は丁寧にまいた。
おかげでより安心して旅に出かけられることになり、妻も安堵したのか即席で朝食を用意して彼女を残し、この秋初のテラスでの朝餉になった。
ちなみに、デンマークから帰ってから後のことだが、心配していたトウガンとツルクビカボチャはそれなりの実が採れた。サル避けの工夫も有効であったのかもしれない。オクラは新記録の樹高に育っていた。
11日はドラマチックな1日になった。その予告編は6日のオキュパイドジャパンであった。知範さんはオキュパイドジャパンという言葉を知らず、まず同情から始まっている。そういう私も、アメリカで民間人の家に招かれるようになった1960年代末ごろまで、知らなかった。だから、知った時の驚きや、心の揺れなどを思い出し、同情した。
その民家の暖炉には素敵な人形や燭台が飾られていた。その多くにメイド・イン・オキュパイドジャパンとの刻印が押されていた。食事時に「これも」と裏返して見せられたスプーンや、食後に取り出し、差し出されたライターにも刻印されており、いずれも「品質が良い」と感心された。GHQが支配する占領下の日本で製造された輸出品であった。
そこで妻に「知範さんに、あのキューピーを…」と、探し出すように頼んだ。それは妻が人形作りに手を染め始めて間もないころのことで、天神さんの市で買い求めた品だ。メイド・イン・オキュパイドジャパンと刻印されており、妻に事情を教えた。
妻はオキュパイドされた (占領下の)ジャパンで誕生していながら、その時までその自覚がなかった。だから、親指ほどの小さなキューピーだが、容易に思い出したようで、すぐに探し出し、手元に届けた。40年ぶりに私は手に取った。
当時は、こうした軽産業に専心した日本人が沢山いたわけだ。そうと知った私は丁寧な仕事ぶりに敬意を払い、敗戦後の産業基盤を最初に固めたこうした人たちと見て、感謝の念を抱いたものだ。今にして思えば、今日の日本の繁栄はメイド・イン・オキュパイドジャパンに携わった人たちの知恵や努力、あるいはガンバリなくしてなかったわけだ。
このような回想が、知範さんと一緒に畑仕事につかせた。それがヨカッタ。
実は11日、私は朝寝坊をしている。だから、朝飯前の一仕事には1時間しか当たれなかった。だが、囲炉裏場近くでモリアオガエルを見かけた。妻に教えると飛んできて「これはシュレーゲル(アオガエルの方)とは違います」と大喜び。どうやら庭には2種のモリアオガエルがいるようだ、と知ることから始まっている。なぜか私は、庭で意のままにならい野生生物が健在でありことを知ると、元気をもらう。
朝食後、庭に出直した。午後の段取りを考えていると未来さんから電話。「ならば、2人で手分けして…」と目論み「2時に…」と約束して小1時間で切り上げた。最後のナスとトマトの支柱を解体し、蔓などのカスを片づけ、いつでも耕し、冬野菜の畝として仕立て直せる状態にしていたので、未来さんを迎えるまで書斎にこもることにした。
旧玄関を出たところで、コオロギをくわえた小さくて柄が鮮明なヘビを見かけ、妻に教えた。ヤマカガシのような柄だが「青大将の幼児だろう」と妻に話した。
昼食後、人形工房に向かった妻が、中庭から大声で「ヘビ!」と叫び、母屋のあたりで何かを指さしていた。駆けつけると、ヒトの歳でいえば中1ぐらいのヘビがいた。これで今年は5匹目(それぞれ大きさが異なっていた)を見たことになる。昨年から庭にブッシュ部分を増やしたが、その効果てきめん! 呼び集めたのかもしれない。この日、妻はモリアオガエルをパーキング場でも見かけている。
午後は残念ながら雨が降り出し、未来さんとPC作業に切り替え、次の予定(未来さんにとっては1カ月ぶりの庭仕事になる)を組んだ。未来さんもオキュパイドジャパンを知らなかった。PCの前に土人形のキューピーを置いたままだったので話題になった。正しい歴史を知らずに真のディグニティなど育めるのだろうか、とまた同情。この日、雨のおかげで、妻は所望の名刺を作ってもらえた。
未来さんを送りだした後、私の想いは同情から反省にかわった。7年間におよぶオキュパイド時代を、私は子どもの時に体験したが、同世代の1人としての反省である。戦中のあの狂おしくて息が詰まるような(国民には主権がなく、ピリピリしていた)時代だけでなく、その後のオキュパイドジャパンの時代を経て、新生日本の時代へと進んでおきながら、肝心の時代をキチンと認識していないかのごとき状況になっているわけだ。
世界のどこに、オキュパイドジャパンのごとく、占領下の国民が主権を手に入れる憲法を創り得たわけだが、他にそのような事例があっただろうか。裏返していえば、後進にオキュパイド時代の状況を語り継がなくても済むような占領政策をアメリカ軍は敷いたわけだが、このような事例(痛めつけず、恨み骨髄にさせずに済ます占領)が他にあるだろうか。
もっとも台湾統治では、現地の人々の人権を、当米軍と似た意識で尊重していたのかもしれない。だが、事情が違う。日本は戦端を切っている。
真にアメリカは、日本の国民を軍事政権から解放したかったのかもしれない。半歩譲って、アメリカはファシズムの消滅が主眼であり、日本国民の目覚めに賭けたのかもしれない。
それはともかく、当時のアメリカへの感謝なくして日本は、今日の日本を誇ることなどできないはず、と私は反省した。だから逆に、アメリカファーストに転換したアメリカに失望したし、それにすり寄る日本人への警戒感を深めている。
本来は、ドイツと同様に、アメリカと是々非々の間柄を築いていなければならないはずだ。私は愛国心を180度転換させたころから、こうした意識を持つようになっている。
要は、ドイツで丸恥をかいた思い出を振り返ったわけだ。かつての私は庭に日の丸をへんぽんと掲げ、特攻隊員に憧れ、武器をろくに与えられず、竹製の水筒を携えて送り出された学徒兵などに同情するタイプの愛国心に燃えていた。だから残業月100時間などはヘッチャラの商社勤めに明け暮れ、仲間と酒宴を張ったときなどは「俺たちが先兵になって、わが国の女子供を豊かにしよう」などと不遜な気勢を上げたものだ。そのたわいのない勢いで、あろうことかドイツで犯した失策であり、日本を傷つけた失態であった。
この日の夕刻のことだ。居間の明かりにつられてコメツキバッタが飛び込んできた。久しぶりに、あのパチンと音を立てて高く飛び跳ね、相手が驚いている間に姿をくらます技が観たくなり、裏返して置き、ジーット見つめ始めた。10分20分と凝視し続けたが、根負けし、次第にイジワルな気持ちがなえ、庭の茂みに放した。
なぜかコメツキバッタの耐える姿が、オキュパイドジャパンでの勤労者のように思えたからだ。敗戦時のちまたの大人はあらかたおびえていた。鬼畜米英と教え込まれたり、戦場でのわが身を憶測したりしたせいか、男は奴隷にされ、女はメカケにされる、などと思い込んでおびえ、息を詰めるような思いで進駐軍を迎えていた。
だから、それだけ、GHQのボス・マッカーサーの本国召還が決まった時は動揺している。中学生になっていた私はその様子をよく覚えている。昔の日本に(今流に言えば、共謀罪法ができたり、表現の自由が脅かされたりするような状態に)逆戻りしないかとおびえ、マッカーサー元帥に立ち去らないように、と請願する人さえ大勢いた。
コメツキバッタは、息をこらえ、私の視線を気にしながら、私の心の動きに賭けていたようだ。なぜか、その既成概念で命懸けになっている姿に同情し、イジワルな私を反省して野にそっと放放した。
日本はマッカーサーが去った翌年、サンフランシスコ講和条約が発効し、民間貿易が再開した1947年から数えて5年間続いたオキュパイドジャパンは、ジャパンに改められた。
この日、有難い贈り物にも恵まれた。妻は脚に弱点を抱えており、それが露わになり始めたようだが、それに効く品々だ。「その症状なら」とばかりに、わが家で書生として過ごした1人に、足指の力や小指を鍛える上で有効な2種の小道具を届けてもらえた。妻はその日の内に「パーが出来るようになった」と興奮気味。グーしかできなかった足を見せ、デンマーク旅行に帯同するという。
その間の留守に備え、留守番、ハッピーの餌やりや散歩、イモリや小魚の餌やり、とりわけ冬野菜の(初期段階の苗は繊細なので、その)世話などを、手分けして当たってもらうことになり、第1回目の打ち合わせをした。前回の夫婦揃ってのNZ旅行時は橋本宙八夫妻に、前々回は乙佳さんになど、通しの泊りがけで頼んだが、今回は手分けになった。その受け入れ準備もあって、イモリや淡水魚の水槽は広縁から外に出しておくことになり、これ幸いと1次掃除の機会として活かしもした。
かくして、畑仕事や留守番だけでなく、9日間の留守をする間の諸々のことも読んだ手をそれなりに打った。
夜はTVで、冷え込んだ日韓のニュースに触れ、辛くなった。時は今、日韓は国家としての品位、公正さ、度量、あるいは透明度などが世界の多くの人に問われている。両国の三権の対等性や独立性、あるいは国民の先進性や国際性なども問われている。
旅行前の最後の来客は森田知都子さんだった。環境先進国でもあるデンマークでは2つの家庭に招かれることになっていた。そこで、森田さんにお願いして好ましき風呂敷と、その活かし方を存分に紹介する書籍を土産の1つに選ばせてもらった。
森田さんはかねてから、「環境問題に目覚めたのは拙著がキッカケ」と言って下さる方だが、お見送りの時に、背負われたリュックサックに見覚えがあった。案の定、「あの本で紹介されていたから」とおっしゃった。
この後の丸5日間は、ありがたいことにツイテいた。まず、心臓の運動負荷検査や24時間検査(結果は10月になる)で、私なりにどこまでは許されるのか、を推し量りたいと願った。しかも、「ムッと」してもらってよい医者に当たったのも幸いだった。助手の作業中は、手にしたスマホを隠すようにして終始遊んでいた。だから、たとえば坂道を「もっと早く」と急かされると、「もっと、とは…」と問い返し、「限界まで」と聞けば「死ぬ寸前まで、でよろしいか」と口答えする、など。おかげで、この程度なら庭仕事でも大丈夫、という「アゴの出方のほど」を確かめられたような気になった。
その上に、2人の佛教大生に助けられた1日と、未来さんの2日にかけて手伝ってもらえた助力に恵まれた上に、雨が降らなかったのがヨカッタ。
この時期は、冬野菜の作付けだけでなく、野草が種を振りまく最盛期に入る。せめて、その花や種だけでも刈り取っておきたいし、10日ほど空白の日々を活用する手立てを施したうえで出かけたい。また、台風や大雨の危険性も高い。その被害を最低限にする手はずも整えておかねばならない。
まず、2本の長い畝を仕立て直す下準備(腐葉土を未来さんに運び込んでもらう手はず)を整えた。次いで佛教大生をあてにして、留守中の雨にさらしたくない竹の支柱などの収納や、冬野菜の肥料の1つである有機石灰づくりなどに当たってもらった。昼食時に側の枯れ木にキツツキの一種が飛来した姿をしばし楽しんだ。
妻が用意した苗床でのダイコンの苗は、ちょっと早いが畝に下した。他の4種は、移植するには早すぎる。チマサンチェや混合レタスなどの苗床を新たに、帰国後に植え付けられるように用意した。そのついでに温室の遮光ネットを取り除き、夕刻の明かりの下で、ウォールポットを飾る来年用のオリズルランの苗づくりも済ませた。
こうした合間に、過去10年ほどの除草の努力を水泡に帰さぬように、花を付け始めた邪魔な野草の刈り取りや除草にも時間を割き、随分精を出した。
デンマークの旅は、私淑する医師と薬剤師である夫人と一緒と知って、旅行嫌い(庭から出たがらない。海外旅行なんかモッテノホカ)の妻が「私も」と希望。2組の夫婦での9泊10日(関空での前泊と、機中泊を含め)になった。
首都コペンハーゲンではフル3日を割き、今にいたる同国の芸術や勤労の歴史に触れたり、今日のありようを学んだり掘り下げたりした。郊外に案内され、同国での格差問題も垣間見たし、昼食は海辺の有名店でオープンサンドイッチを賞味した。
翌日は郊外の自宅に招かれ、電車で出かけ、随所でデンマーク人の生きる基本姿勢に触れる思いがした。事実をつぶさに学び、自力本願の下に、対話を通して望ましき個性を育み合おうとする。自己責任と自己完結の能力を培おうとする意識から発する思いやりの心がとても強いようだ。
後半は汽車で海峡も渡り、隣のフュン島へ。そこで、わが家を訪ねてもらったことがあるカップルの世話になりフルに3日を過ごした。フュン島での始まりはオーデンセンで芸術家の工房兼ギャラリーを訪れ、世界や人類の所業に触れたし、好ましき機器メーカーも訪れた。カップルの自宅は築151年だった。
南へ40㎞にあるアンデルセンで知られるフォーボ―では、意識の入れ換えを要する教会を訪ねた。美しい港も散策した。次いで北へ同じほど行ったかつてのバイキングの基地では、その墳墓にも足を踏み入れ、デンマーク人の心の原点に触れる思いがした。
薬局や花屋さんにも案内され、いよいよ日本とは様々な面でサカサマの道を歩んでいる人たちの国、と見た。
我が国が「狭い道に大きい車」とすれば、デンマークは「広い道に小さい車」だ。我が国が「あればあるに越したことがないもの(車など)を輸出して、その金でなければ生きてゆけないもの(食料やエネルギーなど)を輸入している」国とすれば、デンマークは逆に「なければ生きてゆけないものを輸出できる国にして、その金であればあるに越したことがないものを輸入している」国だ。そして今、最も豊かで幸せな国であり、国民平均所得がトップランクの国になっている。そこに私は「清豊」を観た。
失敗学会分会の準備がすでに始まっており、この勉強会に参加。場を変えた懇親会にも招かれ、日本のビールだけでなく、最後にうどんも味わった。その間に妻は、午後のスイフヨウと夕刻のほろ酔い加減をカメラに収めていた。
郵便物の中に、最高の「元気の印」を告げる一著と、ジーンズ業界誌を見つけた。前者は「清豊」の社会を形成するうえでとても確かな社会システムや生き方などの提唱であり、その必然性の説得版とみた。後者は、私の原稿も載っており、それは「運」や「ツキ」を呼ぶ生き方の紹介のつもりでもある。工業(第3)時代の破綻を見通し、「第4時代到来論」を唱え始めた45年ほど前の新聞記事も活かしてもらえた。
それは、確かなる私生活を根本にして、そこで学びえた「何か(私の場合は自然の摂理であった)」を触媒や潤滑油として活かし、仕事に励もうとの提唱でもある。この確かなる私生活とは「何か」。それはこの『新生「菜園家族」日本』で焦点を絞れるに違いない。私はバカの1つ覚えのごとく、数十年かけてそのモデルの創出に励んできたようなものだが、それが仕事の面ではツキや運を読んだ。この度のデンマーク旅行でその恩恵を現すキワードの1つがヒュッゲだ、と感じた。
留守中の新聞の整理にも手をつけたが、3つの記事に注目した。まず『素粒子』。デンマークはもとより人権を尊重する民主主義国では成り立たない数々の皮肉に膝を打った。今の日本の梶取りのままでは、第3次世界大戦(武力戦争など時代遅れで、経済戦争として優勝劣敗が決まる文化力戦争になる)でも、わが国は1周遅れの失態を犯したことに気付かされざるを得ないだろう。
原子力村のドグマの一端が「ほころび始めた!?!」との憶測や、その対極を、つまり、しかるべき次代希求する若者の熱が「幾何級数的に高まり始めたに違いない」との印象も心を打った。何せ「裸の王様」の国から帰って来たばかりなンだからヒシヒシと感じ取った。この若者の動きでは、日本は出遅れているようだ。それは充分に、私には読めてつもりになったおり、だから様々な形でエールを送って来たつもりだ。
畑仕事は、早速「帰国翌朝から」というわけにはゆかなかった。7時間の時差ボケにもチョット苦しんだ。出発前にしっかり除草作業に携わっておいてヨカッタ。
留守居をいいことに、ヨトウチュウが予想以上の食害を与えていたので追加の苗を買い求めた。ブロッコリーとハクサイの畝がとりわけ食害が大だったので、補充したのが初仕事だった。
妻が用意した苗床のダイコンを、強引に本植えしてから旅に出たのがヨカッタ。いっそのこと、もっと強引になって、赤ダイコンの苗も…、と思いながらその貧相な苗を本植えした。新たに種をまき直すか、せっかく芽生えた苗だからなど、これが私案の末だった。
残る妻の3つの苗床は肥料不足で、かろうじて生きているといった状態。私が温室で用意して出た苗床は、いずれもほぼ満足できる育ち方だった。そこで、チマサンチェの苗をつめて本植えし、残りは夕刻にポット仕立てに取り掛かった。
当月最後の来客は、ヤブアイの株を下さった。
これが根づいて自生化すれば、庭には3種の藍が自生することになる。