猛暑と渇水に泣かされましたが、上旬は多彩な日々になりました。たとえば、まず8/4日。未来さんが朝飯前の一仕事に合流し、生垣の手入れ。午後は、妻がブルーベリー(2.7kg)を摘んでいる間に、私は久しぶりにハチに刺されました。翌日は、遅ればせながら歯は延命対策にシフト。次いで心臓の検診日は病弱だった亡き父を偲び、3つの体を意識。7日は3通りの来訪者を得て庭仕事の1日を楽しむ。翌満81歳を迎えた8日は、夜に居住地域の集いに参加し、文化の尊重を訴え始めました。そして10日、知範さんが初めて朝飯前の一仕事を経験し、ヒシの移植に取り組み、ミニメモリアルデーにしたのです。
この間の他のトピックスは、まず快晴の初日、パーキングのいわば際剃り。4日は、元友人の息子一家が夏の挨拶に。5日、第4次キュウリ苗の植え付け。7日のゲリラ夕立を慈雨と見たこと。そして8日は岡田さんと朝食を一緒にとり、午後は嬉しい贈物に恵まれたのです。5日ぶりの朝飯前の一仕事と昼寝のセットはこの夏初。次いで2組の嬉しい来客に恵まれた1日に。まず、知範さんと朝飯前の一仕事を終えたところに親友の僧侶が父子3人で来訪し、手塩にかけた立派なモモを頂いた。次は夕刻に、かつて仲人をした夫婦が、私と同じ音の名を与えた息子同伴で恒例の挨拶。その手土産を夜に開け、妻に見とがめられ(この夏2つ目の好物に恵まれ、ニヤケたようで)バツが悪かったこと。
中旬は、当月2度目の3通りの来客を得る日から始まりました。まず私淑する医師夫妻を朝食に迎え、次いで2人の佛教大生と未来さんに合流してもらい、昼食時まで時の流れを忘れて歓談。庭仕事は夫妻を見送った後、初めて取り組む2つの作業を主に手を染めたのです。シホウチクの異常新芽の刈り取りと、庭で発生する泥の活用でした。
かくして盆休みに入りました。12日は3時に目覚め、29度の室内温度と、2頭のシカに2度ビックリ。その後PC作業、朝食、書斎と続き、早昼を済ませ、久保田さんと京都駅で落ち合い、映画『沖縄スパイ戦史』を鑑賞。2人の女流共同監督に感激と感謝。翌朝、久しぶりに両親の墓掃除に付き合い「来年も」と思いました。午後、対話が楽しい旧友を久しぶりに迎え、歓談は数時間におよび、妻を感心させました。そして、14日の朝は恒例の棚経。異常気象を嘆きながら僧侶を見送り、お下がりの朝食。庭はカラカラ、井戸枠水槽の水位は異常低下しており、台風がらみの一雨を期待すると、「大勢の方が、お盆休みの帰省中ですよ」と、妻にたしなめられ、多々覚悟すべきことに気付かされています。
台風10号がらみの3日間は書斎にこもり、資料の整理。常軌を逸した工業国圏120年の総括と、それに与した唯一の東洋人の蹉跌を反省。また、NHK-TV終戦時期恒例の番組のおかげで追認すること多々、を喜びました。慈雨で済んだ台風が去り、予定通りに訪ねてもらえた客に感謝。妻は雨上がりの畑に出て2つ目の恒例の盛籠造り、私は四国旅行の最終手配。日曜日に知範さんを2度目の朝飯前に迎えましたが雨にたたられました。翌19日は48mmの豪雨と落雷。かく中旬を過ごしました。
下旬は梅雨のごとき雨が続き、ウンザリ。その合間の畑仕事は、ジャングルのごとき夏野菜と格闘しながら冬野菜用畝の準備。その間の21日、恒例のごとくサルに襲われて大わらわ。22日は、アマガエルを見つけ大喜び。25日は早朝から四国は松山へ。しまなみ海道に始まり、宮崎さんが待つ今治、大嘗祭に備える徳島、剣山を抜けて空海が開眼した室戸の「御厨人窟=みくろど」に至る4泊5日2000kmの旅でした。わが家に帰着すると、妻は雨に閉口しており、郵便物が溜まり、ツクツクボーシが鳴き始めていました。
~経過詳細~
庭仕事は4日の朝飯前の一仕事から始まったようなものだ。未来さんを迎えて「まだ車が通らない間に」と、道沿いの生け垣の剪定に妻と3人で取組んだ。伸びたカシの枝を手バサミで摘み取る剪定だが、毎年数度は取り組んでいる。
このところ早朝の散歩を楽しむ欧米系のカップルや独り者が多く、老若を問わず、すがすがしい挨拶を交わし合え、つい昔を振り返ってしまう。海外出張のたびに、それぞれの土地柄を知りたくなって早朝に起き出し、散歩に出かけたが、そのおりの思い出だ。「あの時も、こんな道を通ったなぁ」などと思い出し、そのたびに再訪を願う。そのような道を用意したくて50年来努めて来たようなものだ、とフト思った。
それが私なりの健康法・3つの体をバランスよく保つ手段でもあり、私なりの愛国心の発露でもある。年齢も実年齢だけでなく、精神年齢や健康年齢があるように、身体も3通りあり、この6つのバランスをうまく保つことが大事だと思う。
また、愛国心も、2通りあると思う。仮想敵国をこしらえるなどして団結せざるを得ない愛国心。この愛国心を是とすれば、世界1の戦闘力と経済力を兼ね備えるまでオチオチできない。さもないとヘコヘコと悪ガキの顔色を見る三下のごとき気分になるのがオチだ。たとえ世界1のなってもオチオチできない。
他方、世界中の健全な心身を備えた人々から、敬意や尊重の念などを抱いてもらえる愛国心もある。私は後者を真の愛国心だと思っている。日本人であるの前に人間である、との自覚と覚悟が第1だろう。そしてこの覚悟は気概に置き換えられそうに思う。
今月は5度も、妻の新作サンドイッチを食すことになった。そのトライアルが、この日の未来さんであった。妻はお気に入りのパンに、野菜サラダを挟んでつくったが、未来さんは「作り方を教えてください」と身を乗り出した。
彼女を見送った後で。なぜか私は妻に「近頃は、ハチが減ったねェ」と話しかけた。かつては生け垣の剪定時には、私は決まったようにアシナガバチに刺されたからかもしれない。用心深い妻は、その警戒音に気付き、巣を見つけて私に知らせ、私に退治させた。だから、ハチに刺されてから巣に気付く私を「性懲りもなく」と妻はあきれたものだ。
この日は、夕刻にも庭に出た。妻はブルーベリー摘みに手を付け、私はまず生ゴミを堆肥の山に運び込んだ。堆肥の山でハチの羽音に気づいたので、その羽音がする当たりに生ゴミを被せるように放り込んだ。その瞬間だった。久しぶりにハチに刺された。「熱いっ!」と叫びたくなる痛さで、小型スズメバチだと分かり、思わず「ニヤリっ」。
そうと知った妻は心配したが、私はその時には既に三重の喜びを覚えるまでにココロの整理がついていた。目にもとまらぬ速さにまずニッヤリっ!。次いでハチの元気な姿に「オヌシやるなっ!」と敬意を表し、久しぶりの刺激に「体も喜んでいるはず」と思った。
私たちは、ホモサピエンスになってからでも10万年とも20万年ともいわれる時を人類として過ごしており、その間は、常に虫に刺されたり草木にカブレたりしていたはずだ。だからこうした刺激も織り込み済みの体になっており、適度なこうした刺激は心身の健康にとって有効のはず、と私は思っている。見掛け倒しのわが身だが、ピンピンコロリの秘訣では?手、と見てもらえる人生を願っている。
それよりも何よりも、妻と早朝にハチを話題にしていただけに「ヤッパリ」と思った。かつて、マムシと出くわす前に、2度も予兆のごとき体験をするなど、「虫の知らせらせ」のごとき思い出が多々あったのだから。
その後、腫れはいつものごとく一昼夜した頃がピークになり、その翌日あたりから一昼夜はかゆい。だから「効いてきたゾ」とまたニンマリ。
妻は2度目のブルーベリーを摘んだが、ジャムに煮上がったのは8日だった。この日の妻は、トマトの加工品造りにも取り組んでいた。今年は、妻の希望でトマトの苗を数次にわたって植え付けており、大量に育てた。おかげで(ピクルス以外に)初めて取り組む保存用トマト製品を2種は楽しめそうだ。
以上が上旬の庭仕事の様子だが、6日の心臓検診の結果がかんばしくなかったし、あまりにも高い気温にも閉口し、作業はあまりはかどらなかった。
「今頃になって」と言われそうだが「際剃り」という言葉を庭仕事に用い始めた。午後の茶を用意した妻から「今、どこですか」と内線。「パーキング」と応じた。「何をしていますか」と来たので、思わず「際ぞり中」と口から出た。それで通じた。近年、加齢対策の一環として小径の防草土舗装も進めているが、この道沿いの作業は理髪でいえばいわば際ぞりダ。今後のために便利は言葉を思いついた。
今後のために役立つ、という意味で言えば、第4次のキュウリ苗の植え付けもその1つだ。事情があってこのたび義妹からポット苗を預かることになり、水やりなどを引き受けた。だがポットのままでは養分不足の徒長した苗にしてしまう。そこで畝に仮り植えをして太らせることにした。それが2重にヨカッタ。
2週間後に妻が掘り出し、義妹に返したが、「立派に育って」と喜んでもらえた。その上に、半分ほどを残してもらえた。だから「このままここで育てみよう」となった。この時期から育てるキュウリは初体験だけに、後学のためになる。
初体験という意味で言えば、シホウチクのヒコバエのごとき新芽を刈り取ったのも初めてだ。過日、知範さんにシホウチクを皆伐してもらい、絶やすことにした部分がある。ところが、そこから時季外れの新芽が無数にびっしりと出た。シホウチクがタケノコを出す時期は10月末から11月にかけてだし、葉は翌年の春まで出さない。ところが、この時季外れの発芽分は葉を沢山つけている。
これはシホウチクの生き残りをかけた異常発芽だろう。「そうは許さジ」と、佛教大生2組目の来訪時にリーダーの千夏さんと、未来さんの2人に刈り取ってもらった。この異常発芽は、皆伐して絶やそうとおもう部分だけでなく、散発的だが、この竹の根が広がっている範囲内の随所で生じている。
異常と言えば、畑をジャングルのようにさせてしまったこともその1つだ。思いつく理由は多々ある。まず、蔓性の豆類や背が高くなるトマトを例年以上に育てたこと。これらと競争してオクラやナスに背を競わせてしまった。さらに、自然生えのゴーヤを尊重し、好きに伸ばせてしまった。それでなくとも日照不足の畑だから、すべての作物が競って背丈を超ええるまでなり、ジャングルのごとき夏野菜の畑になった。
だから、ジャンブルに分け入る覚悟とその整備の時間を心づもりしてから畑に入ることになる。
それにしても分からないことがある。異常高温が関係しているのだろうか、インゲンマメも大きく育ちながら、2次分以降は良い実がまったくとれない。モロッコマメに至っては、花が付けども実がつかない。シカクマメはこれからだが、どうなることやら。
逆にカボチャは生育自体が異常に悪い。ゴーヤだけはたくさん採れる。こうしたこととの関係は不明だが、アマガエルがよく目につくようになったことは嬉しい。
今年も、良い時に生んでもらえたものだと感謝しながら誕生日を迎えた。この後に「お盆」など恒例の行事が続き、いつも誕生日が近づくと「地蔵盆が近い」などと思ってしまう。
しかも今年は岡田さんと朝食を一緒にとることになっていたので、その思いを一際大きくした。もちろん岡田さんとの朝食も、未来さんがトライアルしたサンドイッチだった。
次の恒例の行事はお盆の墓参り。墓掃除は妻に任せきりだったが、今年は掃除を兼ねた墓参にしたので一緒に出かけたが、それが「ヨカッタ」。まず、炎天下での掃除を終えたが、その時に、1人でなら「この2倍もかけていたわけだ」と気付かせれ、「来年も」と心に決めた。新除草方式を考案し、妻のやり方を改めさせたい。次に、帰途のことだが、嵐山を眺めたが、穏やかに見える山だが地滑りが生じており、名称の由縁を追認した。
そして棚経の日。「今年はお父さん好みで」と、妻は早朝から庭を駆け巡った。母は、花屋で買って生けないと「ケチンボウね」と思う人だった。だが、この度は時間にゆとりがあったようで、墓前の花と同様に前日から目星をつけておき、父好みの花を生けた。
次いで僧侶を見送った後のこと。朝食はお下がりも分かち、1年ぶりに母好みの朝食を味わった。私たちは、野菜炒めやサラダなどを大量に食すが、これは母好みではない。お盆の朝食に限っていえば「お父さん好み」はない。朝はパン食に決まっていた。
そして3日後の地蔵盆。妻は棚経の野菜篭に次いで、2つ目の恒例の野菜の盛篭を用意して、今年も届けた。嫁いできてから46年連続になる。丁度この日から「ハナオクラが咲き始めたの」と妻は大喜び。翌18日の朝から自家用採取もかない、「ねばねば四君子」が食卓に登場した。
今年の盛篭では1つ残念なことがあった。カボチャを自給できなかったことだ。やむおうえず、頂き物を活かした。わが家のカボチャはまれにみる凶作で、丸い方は実を結ぶまでに育たず、ツルクビカボチャも最初の1つはサルに襲われ、落された。残るは1つだけなので、サルと知恵比べを始めた。そういう事情で、妻が友人から頂いたカボチャがとても貴重に感じられ、保存ネットを作りたくなった。1つ出来上がるたびに保存コーナーにぶら下げたが、3つ目の保存ネットこそが「完成品」と言えるに違いない。
こうしたわが家の歳時記は、81回目の誕生日の岡田さんとの朝食に始まり、次々と思い出深く進みながら、最後に妻の顰蹙を買った。だが、遅ればせにアイトワのシンボル付きの品を知範さんに届けてもらえたおかげで、私への妻の嫌味は尾を引かなかった。
まず前日に、恒例の贈物が届いた。日本で最初に(おそらく)園芸療法を(病院と提携して)脱サラして老人介護に組み込んだ夫婦から、だった。脱サラ当時、相談を受けるたびに想うところを述べさせてもらったものだ。その後、すっかり忘れた頃になって、まず老人たちと一緒に育てた大豆で造ったという味噌が届き始めた。やがて、彼がその道の権威であることを感じさせるニュースや好物が加わるようになった。いつしかこの好物が恒常的になり、私は「このヒトから届く分で満足する余生にする」と私なりに決意した。それだけに嬉しい前日になった。
そして当日。かつて書生として受け入れ、寝起きをかさねた人はファミリー名で、喫茶店の元常連客(晩婚だったが、「結婚披露宴はアイトワで」と言ってくださり、まるで仲人のような気分にさせてもらえた)は夫婦名で、共に暖かい知らせが添えられた嬉しい品だった。こうしたことが続いていた間は、妻と喜びを分かち合えた。
問題は、最後から2つ目の贈り物だった。仲人をさせてもらったし、その息子に私と同じ音の名前を与えた夫婦だけに、気が緩んだようだ。夕刻に開封し、2つ目の好物だと知った妻は、「その程度の決意だったのですか」と言わんばかりに、いかにも卑し気に私を見て、ご機嫌斜めになった。「欲しそうな顔をしたのでしょう」と言いたいのだろう。
だが、2日後の早朝に知樹さんを迎え、3度目の新タイプのサンドイッチを用意する時は、妻の気分はスッカリ旧に復していた。しかも、持参願った誕生祝を見て「オシャレ、ね」と喜んだ。
幾つかの印象深い庭仕事ができた1カ月でもあった。その1つは、「そうだ!」とばかりに気付き、このたび初めて取り組んだ案件で、それは庭で発生する泥を活かすマルチングと客土を兼ね合わせたような作業だった。
庭には毎年のごとく泥をすくい揚げないといけないが溝が3か所ある。まず、ビオトープと名付けた溝。次いで、このビオトープに至るコンクリート製の水路(泉の前あたりから数mほどの間)。残る一か所は、円形に近い囲炉裏場の山側にうがってある水路であり、この水路は大雨が降った時に、山水が囲炉裏場に流れ込まさないために設けてある。そこに溜まった泥や落ち葉は、常時は湿っている程度。
これらの泥を、当月2度目の3通りの来訪者に恵まれた日にマルチングに活かした。まず私淑する医師夫婦を朝餉(4回目のサンドイッチ)に誘い、10時に2人の佛教大生が来訪。居残ってもらった医師夫妻に佛教大生を紹介。その最中に未来さんがやって来て、紹介で終わらず話しが弾んだ。この医師夫人は一家言をもつ薬剤師で、その友人でもあるデンマークで活躍する薬剤師の一著も持参くださった。結局、昼食時まで医師夫妻を引き留めてしまうことになった。
泥はいずれも、ほぼ干し上げてあった。ビオトープの泥は知範さんがすくいあげ、後日私が運び出し、乾かせておいた。コンクリート製水路の泥は、私がすくい取って、乾かせてあった。残る囲炉裏場の水路の泥は、先に迎えた3通りの来客の中の2人の社会人にすくいあげてもらってあった。これはもとより乾いていた。
こうした泥を、2人の佛教大生と未来さんが客土できるように処理し、パーキング沿いの排水升花壇にマルチングした。この日は4人で焼き芋も楽しむことができた。
残った泥は、後日私が活かした。過日、コイモの畝の周辺で除草作業に当たったが、その草はマルチング材としてコイモの畝に被せておいた。泥は、それらの草の腐食を促すように被せたが、被せながら佛教大生と過ごしたお茶の時間を振り返った。その折の話題は、古代エジプトのナイル川三角州で行われた農法(毎年生じる洪水で三角州は冠水したが、その時に運ばれた泥を肥料分に活かした知恵)であった。
2つ目の印象深い庭仕事は、先に迎えた3通りの来訪者を得た日の出来事である。この日は、過日の失敗学会大阪大会で知りあい、アイトワの生き方に興味を抱いてもらえた2人の社会人と、3人の佛教大生、そして午後から加わった未来さんだった。
この2人の社会人はパチンコ業界の幹部だけに、とりわけ質疑応答の折に私は共感を覚えている。とりわけ、同業界と客とのトラブルも話題に登り、ガラスを叩き割る人の存在が紹介された時だった。質問者が「それは器物損壊だから、当然警察に…」と語り始めたが、その折の反応がヨカッタ。わが国では、宝くじは買わないと損、と言わんばかりの宣伝が許されている。また国はギャンブルを日本各地で認めようとしている。その中にあって、少しでもパチンコを良き娯楽にしようとする努力が披露された。何がそうした破壊行為に走らせたのか、との原因解明を急ぎ、よろしき関係の構築に努めていた。
この日、2人の社会人は、溝の泥さらえに始まり手斧仕事などさまざまな作業に当たった。学生と未来さんも、土砂運びなどさまざまな作業をこなしたが、とりわけ1人の学生が志願して、ブッシュの中に初めて踏み込み、竹や雑木の刈り取り当たったが、そのかいがあった。参加者全員は小倉池を兼明親王のごとくに眺めることができた。
暑い最中に私を含めた7人は、手分けして様々な作業に取り組んだ。そのおかげか、妻が用意したオマキが適時打(クリーンヒット)になった。炎天下の庭仕事にピッタリの昼食だと知りえたし、たまたま来合わせた久保田さんにも味わってもらえた。
だが、午後のお茶の時刻の後が残念だった、せっかくイモを焼く寸前まで準備をしながらにわかに雲行きが怪しくなり、大粒の雨が降り出し、焼き芋を楽しめなかったことだ。
3つ目と4つ目の印象深い庭仕事は、ともに知範さんが関わったミニメモリル作業だ。まず、知範さんが初経験した朝飯前の一仕事。2年前からヒシをプラスチック容器で育てていたが、ほぼ期待通りに育ったのでこの日、かつてはハスを茂らせていた(が、日陰になって耐えさせてしまった)オレンジプールへ移植した。
次いでカシの生け垣の歯抜け部分を埋めえる作業だったが、鉢で育てた数本の苗木の定植にとりかかりながら、一番大きな苗木を植えたところで雨になった。そこで、新メニューのごとく模様替えした当月5度目のサンドイッチを賞味した。
加えて、やっとこさ、刃物の研ぎ仕事をし終え、その余勢をかってフジづるの徒長枝の刈り取りもした。鎌は、長崎は牛深に訪ねた川上アリエさんの鎌(一番使い込んだ分)も研いでみた。その昔デンマークで買い求めたオノ(ヴィキング時代の伝統の品と聞いた)も使ってみることにした。
今年のトウガラシは好調だったが、後半は酷いことになった。昨年から現れはじめたカメムシが大量発生し、トウガラシだけでなくチョウセンアサガオも襲った。やむなく退治のし方の検討に入った。水を少し入れたバケツを受けて、枝から次々と振るい落として周り、最後は殺虫剤を噴霧した上でふたを被せておく。この方法しか思いついていない。
この方法だと、作物にしがみついてバケツの中に落ちない虫や、バケツの外に落としてしまう虫があり、再度作物に登って食害に戻るころを狙い、2~3日かけて数度にわたって駆除作業に当たる必要がある。さもないと、しがみつく虫や、運よく落ちる虫を捕り残し、不都合な遺伝子を残させかねない。幸か不幸か、今年は虫害被害が多かったので、未来さんに我が家流殺虫剤の活かし方を紐解き始めた●47。
中庭のスモモにもケムシが発生した。これで3年続きの大発生になったので殺虫剤の噴霧を実施した。周りにはメダカやキンギョを棲まわせた水鉢もたくさんある。だから、殺虫剤が入らないように丁寧に覆いをして、風向きの様子も読みながら実施した。
同じ木が3年続けて虫害で裸にされたりしたら木が枯れかねない。だからわが家には15mほどの高さまで噴霧できる機械を用意してある。だが、未だ用いずに済んでいる。虫の異常発生は、どこかに不自然な無理を生じさせているに違いない、と私は思う。
当月はシカに緊張し、サルに悩まされ始めた。まず異常な暑さに驚かされた誕生日の早朝。3時ごろに目覚めてしまいやむなくPCの前に陣取った。蒸し暑さに驚き、屋内温度計を確かめ、「なんと!」と思った。その日から連日29度を指すことになりビックリ。かつては雨戸を閉め、合い布団で眠ったものだが、網戸にしても寝苦しい時代になった。緑化に不熱心な「都会はいかばかりか」と同情した。
息抜きをかねて庭に小用で出た。屋内同様に蒸し暑い。「ついでに」と足を延ばし、日の出までずいぶんあったがシカよけのカバーを外すことにした。
その時だった。シカの駆ける音が近づき、前の道を2頭のシカが駆け抜けて、遠ざかった。これまでは、日が暮れてからほどなく出て来て2~3時間で引き上げるもの、と見ていただけに2度目のビックリ仰天。
この時期(柿の実が5㎝大の青柿の頃)になると毎年サルが出没する。今年も恒例のごとくサルに襲われた。山が餌不足になる時期だろう。その最初はハッピーが吠えたので分かった。出てゆくと退散した。次は、不作のカボチャコーナーで、唯一のツルクビカボチャがなくなっていたので「もしや」と疑い、すぐにサルだと分かった。落ちて転がっていたカボチャヲ拾いはしたが、十分に成熟しておらず、実にクヤシイ。
やがて、このコーナーで2つ目の実が結んでいることを知った。そこで、知恵比べを始めた。先に落とされた実の後は襲われていなかったわけで、「これでよかろう」と思う手を打つにとどめた。
その後、常寂光寺を訪ねる用があったが、心臓が弱ったオカゲで良き思い出を振り返ることができた。心臓が良い頃は5分で登れた階段を10分余で登れたので寺務所に早く着いた。だから一帯を眺め回す気になり、鐘楼にも目が行った。その側には見覚えがある柿の木があった。70年以上も昔のことだ。当時は、寺の門扉は常に開いていたものだし、観光客などいなかった。だから子どもは一帯を遊び場にしていたから、秋になると柿盗人に転じた。当時は、柿盗人にはなぜか寛大だった。子どもの柿ドロボウを「サルの被害程度」に見ていたのでhないか、と考えながら木を見上げた。
ある日、私がこの木の実を盗んだ日のこと、夕刻に寺守さん(住職夫人)が篭に柿の実を盛って持参し、応対に出た母に「今年は豊作で」とだけ言って帰っていった。だから、二十歳から庭に植樹し始めたが、カキとグリ各10本だった。
虫害にも悩んだ当月だが、庭では様々な援軍を見た。肉食のハチも援軍だが、カマキリや七つ星テントウムシなども援軍だし、有機物を分解し肥料に近づける貝や虫も援軍だ。庭では随所で援軍が働いている。
色々と考えさせられる1カ月でもあった。NHKスペシャルの「ヒロシマの声」から始まったようなものだが、次いで観た映画『沖縄スパイ戦史』と、翌日の友人との対話が火を付けた。この映画は、先月の『主戦場』以上に吾が想像力不足を突かれること多々であった。
沖縄戦は、本土攻撃を遅らせるための「捨て石」であったように思っていた。だが、本土決戦の戦い方を推し量るための、つまり「一億玉砕戦の前哨戦」であったことも知った。だから中野部隊が本格介入し、住民を巻き込み、卑劣で壮絶な展開となった。ペリュリュー島戦では原住民を排除して戦い、それが原住民保護であったとの美談を生んだ。だが、沖縄戦ではことごとく住民を巻き込み、一億玉砕戦(国体を守る戦い)でいかに生かせばよいのかを推し量る実地演習であったようだ。日本の体質や体制は、今も変わりないことを如実に教える。それだけに2人の女流の共同監督に感激し、感謝した●55。
私は、戦争を仕掛けられないための智慧と努力ならいくらでも絞るが、国土を戦禍にさらすぐらいなら死を選ぶ覚悟をしてきた。
翌日、久しぶりに迎えた旧友と、延々と楽しい対話を繰り広げたが、頭と心の体操になった。対話は、確たる意見を持ちながら、それ以上に、確たる意見の持ち主を尊重する心が大事だ。そして、より望ましき第3の意見を発見しあい、より心を解放しようと願うことから対話は始まるように思う。それだけに楽しかった。
おかげでその後、終戦日前後恒例の敗戦をテーマにした番組で追認することが多々あり、生きていてヨカッタと思った。おおよそのことを正しく推し量れそうな気分になりたい、とわが身に言い聞かせてきたが、四国旅行も良い時に組み込んでいたように思う。
一番驚いたことは、四国の住人であり(知識欲が旺盛で、まっすぐな人たちであり)ながら、あら方の人が忌部の存在をまったく知らなかったことが分り、驚かされた。忌部の本流が来たる大嘗祭に欠くべからずの存在であることを知ろうともしていない人が多い。そのせいだろうか、ある講演の後で一人取材を受けた。
かつて、上杉鷹山の足跡や功績を探りたくて米沢をしばしば訪ねた。その間にNHK=TVで直江兼続の存在と功績を知り、補足調査で出かけた。だが、複数のタクシーの運転手に始まり、多くの人が「大河ドラマで知った」と応えたので仰天したが、同様の驚きを感じた。
過去や歴史を正確に知らずして未来が推し量れるのか。歴史の歪曲や隠ぺいは、悪質な誘導だ。それでは確かな明日を夢見て生きられまい。第一に、真の愛国心など醸成できようはずがない。そのした思いも抱きながら帰宅したが、郵便物が溜まっており、ツクツクボーシに励まされながら目覚めた翌朝、整理に掛かった。幸いなことに、地域の「9条の会ニュース」や日本エッセイストクラブの會報も混じっていた。